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 夢魔はずるずると地を這うような足取りで楸先輩へと近づき、楸先輩はそんな夢魔から逃れるように一歩、二歩、三歩と後ずさる。

 わたしもユキの腕にしがみつきながら、すぐにでもこの場から逃げ出したい気持ちに駆られ、けれどまるで棒になってしまったかのようにその足は動かなかった。

 ただ小刻みに震えるばかりで、わたしの意思を拒絶する。

 ユキはそんなわたしの手を握り締めながら、わたしを守るように目の前に立ちふさがった。

「だ、誰なんですか、あなたは! どうして私の姿をしているんですか!」

 楸先輩は夢魔に向かって叫んだけれど、夢魔は当たり前のように、何一つ答えてはくれなかった。

 身体を左右に揺らしながら、まるで嘲笑うかのように闇を歪めて――次の瞬間、ダッと床を蹴り、わたしたちへ向かって飛び掛かった。

「逃げて!」

 それは、楸先輩の叫び声だった。

 楸先輩はこちらに身体を向けて全速力で駆け出すと、すれ違いざまにわたしの腕を強く掴んで、

「何してるんですか! 早く!」

 足のすくんでしまったわたしを引っ張り、真っ暗な廊下を走り始めた。

「アオイ! 急いで!」

 ユキにも促されたけれど、それでもわたしの足は、まるで言うことを聞かなかった。

 わたしはユキと楸先輩に引き摺られるようにして、足をもつれさせながら、それでも必死に太ももをばたつかせた。

  そのせいだろう、わたしたちの逃げる速さはとても遅くて、すぐにでも夢魔に追いつかれるんじゃないかとそればかりが気になって、わたしは何度も何度も後ろを振り向く。

 夢魔はけれど一定の距離を保ったまま、まるでわざとそうしているのか、わたしの走る速さに合わせているようにしか見えなかった。

 それが何とも恐ろしくて、不気味で、気味が悪くて。

「――あっ!」

 思わずわたしは自分の足に躓いてしまい、そのまま前のめりに倒れてしまった。

 それにつられるように、ユキも楸先輩も、バランスを崩して廊下に倒れる。

 即座に後ろに顔を向けると、わたしのすぐ目の前にはあの、渦巻く闇が待ち構えていて。

「――――っ!」

 わたしは、声にならない悲鳴を上げた。

 グルグルと渦を巻く闇を見つめるだけで、わたしの視界はぼやけていき、耳は遠ざかり、いつしか意識もどこかへ飛んでいくような感覚にとらわれて、

「ア――イ!」

「――ネ――キさん!」

 ふたりの声が、とても遠くから聞こえた気がした。

 ふわりとした感覚がわたしの身体を包み込んで、どんどん、どんどん、力が抜けていくのを感じながら。

 ……あぁ、わたし、もう――

 その時だった。

「カネツキさん!」

 すぐ近くで楸先輩の叫び声が聞こえてきたかと思うと、物凄い衝撃がわたしの背中に襲い掛かってきたのだ。

 痛い! と思った時には、すぐ目の前にユキの涙にまみれた顔があって、

「アオイ! アオイ!」

「……ユ、ユキ?」

 どうやらわたしは、廊下に仰向けで倒れてしまったようだった。

 はっと我に返って、慌てて飛び起き、

「ひ、楸先輩!」

 数メートル先で、夢魔と対峙する楸先輩の姿が眼に入った。

 楸先輩はじっと夢魔を睨みつけたままで、

「――早く逃げてください」

 その背中越しに、わたしたちにそう言った。

 楸先輩の身体はわずかに虹色に輝いて見えて、その身体の周囲を風が吹き荒れ、長い髪が激しく揺れ動いていた。

 それはたぶん、風の魔法。

 けれど、こんなに激しく吹き荒ぶ風を起こせる魔法使いなんて、わたしは知らない。

 初めて目の当たりにした楸先輩の魔法の力に、若干の怖れを感じながら、それでもわたしは彼女に叫んだ。

「楸先輩は、先輩はどうするつもりなんですか!」

「私なら大丈夫です」

 とても短い言葉で、楸先輩は返事して。

「い、行こう、アオイ! 早く!」

「で、でも、先輩が……」

「――アオイ!」

 ユキに強く引っ張られて、わたしはユキに顔を向けた。

 ユキは真剣な眼差しでわたしを見つめて。

 わたしはその眼に、それ以上何も言うことができなかった。

 ただひとつ頷き、ユキの手を握り締めて。

「行くよ」

「うん」

 なんとか必死に立ち上がって、わたしたちは、楸先輩をその場に残して、長い廊下を駆け出した。

 廊下はどこまでも続いていた。

 時折後ろを振り返り楸先輩や夢魔の姿を探したが、その姿も次第に小さくなっていき、やがて暗闇の中に溶けて消えた。

 完全なる無音だった。

 いつしか周囲の景色も変わり、もはやそこは学校ですらなかった。

 明かり一つなく、足音一つせず。

 ただ、ユキと握り合ったその手だけを頼りに、わたしたちは闇を駆け抜けていって、

「――えっ」

 やがて辿り着いた小さな部屋を前にして、わたしもユキも立ち止まった。

 明かりもないのにその部屋ははっきりとした色を持ってわたしたちの前に立ちふさがっており、延々と続く闇の中で、異様な雰囲気を醸し出していた。

 それはどこか見覚えのある小さな部屋――生徒指導室と書かれたプレートに、わたしもユキも思わず顔を見合わせる。

「な、なに、ここ」

 不安げなユキの呟きに、わたしも声を震わせながら、

「わ、わかんない……」

 どうしよう、なんなんだろう、どうしてわたしたち、こんなところに。

 思いながら、周囲を見回していると、

「――やぁやぁ、ようやく会えたね」

 そう言ってふらりと姿を現したのは、

「う、馬屋原先生……?」

 柔和な笑みを浮かべた、白髪眼鏡のおじいちゃんで。

「なんで、先生が、こんなところに」

 思わず口にしたわたしの言葉に、馬屋原先生は、

「――はい、ごくろうさん」

 そう口にして、わたしたちのおでこにすっと両手の人差し指を押し当てると、

「ちちんぷいぷい」

 その途端、わたしの意識は、不意に途切れた。

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