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この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
本をへしゃりと捲り、指先で紙のざらつきをなぞる。
今、私がいるのは――観測機関、そして I.C.O. の旧本拠地。
この場所には膨大な書架が並び、
本の中には“世界に存在したすべての人間”の過去と未来が記されている。
……それだけなら、ただの観測者の資料庫だ。
でも、ここにはもう一つ。
I.C.O. が孤児を利用して行った実験の記録も、残酷なまでに整然と残されている。
組織の身勝手で無情な思考によって、
いくつもの命が、壊され、消されていった。
篠塚レンも、その被害者のひとり。
彼は“特別”と呼ばれる力を持っていた。
光を纏った剣を、自分の想いのままに操る――
観測者の中でも、たったひとりにしか選ばれない能力。
レンは、選ばれてしまった。
そのせいで、お父様と妹を失った。
そして今も、組織に命を狙われている。
彼らがその力を手に入れて何を企んでいるのか。
私にはまだ分からない。
――そもそも、レン自身がまだ力をうまく扱えていないのだ。
……だからこそ、考えなければならなかった。
先日、レンを捕獲し、私を消すために
「ヒバル」と「シス」と名乗る I.C.O. の幹部が現れた。
あのとき私は殺されかけ、レンも壊される寸前だった。
それでも、どうにか勝つことができた。
――ほんの僅かの差で。
その日から私は、レンにさえ知らせずにこっそり旧本拠地へ足を運び、
彼らが何を企んでいるのか――その答えを探し続けている。
当然、命を狙われている身だから、
侵入が知られて襲撃されることもある。
だけど、そこは何とか切り抜けて、
組織の構成、実験記録、そして“消された真実”に手を伸ばしてきた。
そして、どうしても引っかかるのが――あの最期。
戦いの最中、ヒバルがシスを「カナタ」と呼んだ。
あれは、きっと本名。
ヒバルの本名を知ることは叶わなかったけれど、
シスの名は「カナタ」。
……私は、その名を知っていた。
ずっと昔。
ほんの一度だけ目にした記録の中で。
だから、今日ここに来た。
真実を確かめるために。
「カナタ……カナタ……」
私はその名を呟きながら、
無数の本の群れの中から、かつて見た一冊を探し出そうとする。
書架空間は常にざわめいている。
本たちが蝶のようにふわふわと飛び回り、
掴もうとするほど遠ざかる――面倒で、気まぐれな空間。
最近は、情報が増えるほどに頭の中がぐるぐると回り続け、
思考が重なってズキズキと痛む。
たとえば――
私には“クローン”が存在し、現在は消息不明であること。
この世界は、人が生きる「生命の世界」と、
死後魂が眠る「死後の世界(虚月の異界)」で構成されているということ。
ここまでは、まだ理解できる。
観測者として学んだ知識でもあるし、納得もできる。
けれど問題は、そのさらに奥だ。
先ほど説明した二つの世界に加えて――
「もう一つ、世界がある」という記録。
さすがに、そこまで踏み込むと時間がいくらあっても足りない。
だから私は、今は世界構造の謎ではなく、
I.C.O. の秘密を中心に調べることにしている。
「……あ。」
ようやく、一冊の本が私の前に降りてきた。
まるで、探し疲れた私を哀れんだかのように。
灰色の表紙。
角が擦り切れて、何度も開かれた形跡がある。
私はそっと手を伸ばし、その本を掴んだ。
指に触れた瞬間――ぞくり、と冷たい感触が走る。
「……これ、ですね。」
震えないように、深呼吸をひとつ。
しゃ……。
ページを捲る。
そこに書かれていたのは、一ノ瀬ヒナタと、一ノ瀬カナタ。
ページを開くと、そこには文字がほとんどなかった。
代わりに、淡く揺れる映像が広がっていく。
観測記録に近い。
“彼”の視点と、観測者の記録が混ざったような残滓。
暗い部屋。
散らかった床。
叩きつけられる音。
『ごめんなさい、ごめんなさい……!』
泣いている幼い少年がいた。
女の子ではない。
ヒバル――ヒナタだ。
その隣で縮こまり、震えている小さな子が、
『ごめんね……もうやめて……』
シス――カナタ。
暴力。怒号。割れた皿。
耳を塞ぐ二人の肩が、小さく、小さく揺れていた。
私は、痛いほど息を呑んだ。
続いて映ったのは――
小さな少年が、刃物を握る姿。
『パパもママも、いらないよ。』
血が散る。
叫び声。
崩れる音。
私はページを閉じたくなった。
でも、閉じられなかった。
映像は続く。
夜の道。
息を切らしながら、手を繋いで走る二人。
『お兄ちゃん……苦しい……』
『大丈夫、絶対に……絶対に守るから……』
ヒナタの足は傷だらけで、
血がアスファルトを点々と染めていく。
――その先に、人影。
丁寧に編まれた三つ編み。
風になびくワンピースの裾。
リアスが、そこに立っていた。
『あら。こんな場所で……子どもが二人?』
ゆっくりと膝をつき、二人を覗き込む。
『血の匂い……事情は察したわ。』
その声音は優しいのに、氷より冷たかった。
『可哀想に。
君たちみたいな子は……私のところが似合ってるわ。
おいで、私があなたたちを必要としてあげる。』
ヒナタはリアスを睨みつける。
しかしカナタは震えながら、かすかに笑った。
『……助けてくれるの?』
『まって、カナタ。怪しいよこの人。
僕らみたいな血まみれの子を見て、恐れないなんて。』
リアスは二人の頭を撫でた。
ゆっくりと、弄ぶように。
『大丈夫よ。君たちを奪うことはしない。
ただ――ちょっと力を貸してよね。』
そして――
記録は「暗転」した。
ヒバルとシスが、“ヒバルとシス”になった瞬間だった。
ページが、音を立てて閉じられる。
私はしばらく動けなかった。
「……これが、あなたたちの……」
知らなかった。
あんなにも、二人が“ただの子ども”だったなんて。
レンと戦ったあの時の姿しか知らなかった。
血と狂気に染まった、幹部としての彼らしか。
でも、本当は。
誰にも必要とされず、
誰にも名前を呼ばれず、
ただ互いだけが頼りで――
ようやく出会えた“誰か”が、リアスだった。
胸が、ぎゅっと締めつけられる。
「……こんなの……」
悔しさとも、悲しさとも違う。
でも確かに胸のどこかが焼けるように痛む感情だった。
私は震える指先で、ゆっくりとページを閉じた。
光の粒が本の表紙に降りて、淡く揺れている。
胸の奥で、止まっていた鼓動がようやく再開したように、深呼吸をした。
「……返さないと。」
呟きは誰に向けたものでもなく、ただ自分を動かすためのもの。
私は本を両手で抱えるように持ち上げ、書架の奥へと歩く。
足音は吸い込まれ、静寂が返ってくるだけだった。
戻すべき場所――
無数の“記録”が積み上がる棚の一角。
そこだけ、わずかにひんやりとした気配が漂っていた。
まるで、まだ誰かがそこにいるような気配。
本の背を棚へそっと寄せ、押し込む。
かすかに“カチリ”と音がして、まるで本が息をついたように収まった。
「……もう、眠っていいのね。」
そう囁くと、棚の光がひときわ強く瞬き、
見えないはずのヒナタとカナタの影が、微かに笑った気がした。
私は目を伏せ、小さく頭を下げる。
「ありがとう。
あなたたちの痛みも、想いも……確かに、受け取りました。」
その瞬間――
書架の天井が、また“きぃ”と軋んだ。
今度はまるで、別れの合図のように優しく。
静寂が戻り、私はほっと息をつく。
――その安堵を破るように。
次も「見ろ」と言わんばかりに、一冊の本が飛んできた。
もう目的は達した。見なくてもいい……はずなのに。
私は、飛んできた本を思わずキャッチし、ページを開いた。
「……ぇ。」
数日後。
雲に太陽が隠れ、どんよりとした空模様。
雨の気配を含んだ風が街をゆっくり通り抜けていく。
そんな中、私はレンの隣を歩き、街を散策している。
――ただし、一つだけ問題があった。
レンが下瞼をピクピク痙攣させながら、助けてと言いたげに私を見下ろしてくる。
「ねぇ、これどうするの?」
ようやく絞り出された声は、明らかに限界が近い人間のそれだった。
歩く足は止めず、顔だけ前。けれど視線だけが私へ向けられている。
そして――後ろにいる“それ”へ、そっと目線を流す。
「これはですね、よくあることですよ。
俗に言う……変質者。現代風に言うと、ストーカーの虚霊ですね。」
「いや“よくあること”ではねぇよ!? なんで俺らがつけ回されんだよ……!」
「たぶんですが……レンが最近よく力を狙われてるので、その余波でしょうか。人気者ですね。」
「人気の意味が最悪なんだよ!というかI.C.O.が俺の力狙ってるからって、虚霊まで俺を狙うようにはならないんじゃ?」
「それが、色々と……。」
……ここから先は禁句。
私がレンに秘密で情報収集をしていると知られれば、当然止められる。
だから口を閉ざすしかない。
とはいえ、嘘が得意なわけでもない。
「……」
レンの眉が一瞬だけ寄った。
私の言葉の “途切れ” に気づいた証拠だ。
何か言おうとした――その時。
後ろから、虚霊が「キュ……」と声をあげた。
レンは肩を跳ねさせ、慌てて前を向き直った。
「……とりあえず、振り向けない状況だけは理解した。」
「人を襲ってからでは遅いので、安全な場所で眠ってもらいましょう。」
レンは私の言う「眠らせる」の意味を知っている。
戸惑った表情を見せながらも、小さく頷いた。
そして歩く速度を変えず、刺激しないよう気付かないふりを続ける。
私も、剣の柄に触れるのは避けた。
虚霊に殺意を悟られれば、真っ先に飛びかかってくるから。
虚霊は襲うでもなく、ただ距離を保ちながらついてくる。
“変質者”的な執着なのか、それとも――何者かに“指示”されているのか。
どちらにせよ、良い傾向ではない。
私はレンの横顔を盗み見て、そっと声を落とした。
「裏路地に行きます。丁度いい場所を知っていますので……ついてきて下さい。」
「うん。」
虚霊は、まだついてくる。
でも、それでいい。
あとは人目のない場所で――私が斬れば終わる。
いつもの私なら、人前だろうが構わず斬って、あとで姿を消せばいい。
誰にも見られずに片付ける自信もある。
けれど今はレンがいる。
彼を巻き込みたくないし、目立つ行動は避けたい。
――この人のために、私は少し慎重になる。
裏路地へ入ると、空気がひんやりと変わった。
人通りはなく、奥へ続く細い一本道。
遠くの道路の喧騒だけが、かすかにやってくる。
「……ここなら、大丈夫です。」
私がそう告げると、レンの肩が、ほっと落ちた。
ちょうどその時。
「キュ……」
虚霊が路地の入口に姿を現した。
細い手足、歪んだシルエット。
さっきまでより、わずかに距離が近い。
レンが小声でつぶやく。
「近い近い近い……!なあ、本当に“眠らせる”だけでいいのか?なんか、俺の背中をずっと嗅いでたんだけど……」
「それは……たぶん、匂いに惹かれているのかもしれませんね。」
「最悪の推測をサラッと言うな!?」
私は息を吸った。
もう、気取っている余裕はない。
「レン、五歩下がってください。」
「わかった。」
レンが後退するのを待って、私は静かに一歩、前へ出た。
虚霊が反応した。
細い足がカツン、と石畳を鳴らす。
こちらの動きを、見ている。
もう隠す必要はない。
私はゆっくりと右手を上げ、剣を抜いた。
シャリ……
刃のこすれる軽い音に、虚霊の体がピクリと震えた。
「……眠りなさい。」
剣閃が走ったのは、一瞬だった。
風が抜けるような音。
遅れて、虚霊の身体に白い亀裂が走る。
「キュ……」
抵抗もできず、虚霊はその場で崩れ落ちた。
割れたガラス片のように消えていき、淡い光の粉だけが漂う。
完全に、消滅した。
私は剣を軽く払って鞘に戻し、振り返る。
「大丈夫です。」
レンは、額に手を当てていた。
「お前……あの短時間で、よくあんな正確に……。」
「これ以上監視される訳にもいきませんから。」
「監視?」
「……あっ。」
つい口を滑らせたらしい。
レンは長いため息をつきつつも、何も言わず、
どこか安心したように微笑んだ。
「ま、助かったよ。ありがと。」
「いえ。あなたの方こそ、よく逃げ出さずにいましたね。」
「逃げたら確実に追ってくるだろあれ」
「賢明な判断でした。」
路地の奥で、光の粉が静かに風に溶けた。
ひとまず、平穏は戻った。
裏路地を出ると、街のざわめきがふたたび耳に戻ってきた。
雨の匂いを含んだ風が、レンの髪を揺らす。
虚霊の気配が完全に消えたのを確認したあと、
レンは立ち止まり、静かに息を吐いた。
そして――横に立つ私へ、視線だけを向ける。
「……イロハ。」
「はい?」
「さっきの“色々と”って、何だ。」
足が止まった。
レンの声は静かだったが、逃げ道を封じるような確かさがあった。
「なにか隠してるだろ? 」
真正面から刺さるような問い。
隠していた言葉が、喉の奥でつかえた。
「……それは……」
「隠すなよ。」
レンの目が、まっすぐに私を見ていた。
責めるでもなく、怒るでもなく――ただ、知ろうとしている目。
だからこそ、胸が痛む。
「I.C.O.の長、リアスは、死後の世界の守護者なのは、もうとっくにご存知ですよね。 」
「うん」
「守護者は魂と対話が可能です。虚霊も元は魂。魂が暴走した状態が虚霊。
本来守護者は、人の生きる世界に虚霊を漏れ出さないための監視係。
それなのにリアスは、虚霊を外に出し、暴れさせ、人を襲い、私たちを監視する道具としても扱う。」
レンはほんの一瞬、息を呑んだ。
「虚霊って操れるもんなのか?」
「それは、守護者ですから。 」
「……簡単、なのか。」
レンは短く息を吐いた。
怒りではなく、理解したあとの息だった。
私はレンに誤解が生まれぬよう、慎重に続ける。
「ええ、詳細は不明ですが、リアスはどうやら虚霊を操り、戦力にしているようです。」
「……イロハ。」
「……はい。」
「なんでそんなこと、知ってるんだ。」
胸の奥が少し熱くなる。弓矢で心の的を撃ち抜かれたようだ。聞かれたくない質問をしてくるものだ。
「……実は、少し前から調べているのです。I.C.O.の旧本拠地に侵入して、色々と……」
「はぁ!?」
レンの声が裏路地よりよっぽど響いた。
通行人が何人か振り返り、レンは慌てて口を押さえる。
「……っ、いや……ちょっと待てイロハ。
“旧本拠地に侵入”って……言葉、軽すぎない?」
「そうでしょうか?」
「そうだよ!! 完全に犯罪者ムーブなんだが!?」
「大丈夫です、痕跡は残していませんし、警報はありませんでしたし……」
「そういう問題じゃねぇよ……!」
レンは額に手を当て、深くうなだれた。
ため息というより、魂がどこかへ抜けていったような気配すらある。
「……なんで、そんな危ない真似を」
その声は先ほどよりずっと静かで――
逆に胸に刺さった。
「……レンを狙っている存在が、どうしてそこまで固執するのかを 知りたかったのです。」
「だからって……ひとりで行くなよ。」
レンの言葉は、叱責でも怒気でもなく――
ただ、心底困っている人間のそれだった。
「お前まで危険に巻き込むことになるって、わかってるだろ?」
「もちろん、理解しています。」
「だったら相談しろよ……」
レンはそこで言葉を切った。
雨の匂いを含んだ風が吹き抜け、二人の間の沈黙をかすかに揺らす。
「イロハも、命狙われてる身なんだぞ? 」
視線は前を向いたまま。
だけど、声は安定せずに震えているのが聞いてわかる。
私は、ゆっくりとレンの横顔を見た。
「……ごめんなさい。
でも、あなたを心配させたくなくて。」
「心配するに決まってんだろ。」
レンはそう小さく吐き捨てて――から、もう一度息を整えた。
「今度からは……俺にも言ってくれよ。 一緒に考えるから。」
その言葉は優しさでも甘さでもなく、
ただの“当たり前の信頼”みたいで――胸が少し締めつけられた。
「……はい。」
雨がぽつり、と地面に落ちた。
気づけば、厚い雲の隙間から本格的な雨が降り出そうとしていた。
レンが頭上を見上げる。
「……雨。」
雨か。今のレンとの空気は、雨のように湿っていて気持ちが悪い。
そろそろ、散策を切りあげるべき?
雨が降っていたら、自由に街を歩くことは出来ないし、レンが風邪を引いてしまう。
いや、何より。
私がこの空気から抜け出したいのか?
レンを心配するふりをしているだけで、本当は。
雨粒がひとつ、ふたつ。
やがて連なって落ちてきて、アスファルトに小さな円を描く。
私はほんのわずか、レンから目を逸らす。
胸の奥で渦巻くものを、悟られたくなかった。
小さく息を吸い、きっぱりと、私は言い放った。
「今日はお開きにしましょう。あなたは帰ってください。では。」
「え?」
手をフリフリしながら、私は歩き始める。
雨粒が私の眼球に侵入するのにも気にせずに、レンの後ろから聞こえる声も無視して、
私は駈け始める、レンから逃げるように。
「待ってよ。」
「ごめんなさい」
首を締め付けられたような苦さが口いっぱいに広がり、気持ち悪さを倍増させる。
何がそんなに不快なの?
ただレンは、私を心配しているだけなのに。
前の私なら、もっと揺れずに冷静なはずなのに。
私、最近何か変よ。
私が私じゃない。
雨のカーテンを切り裂くように走り続ける。
足音が水たまりを跳ね、冷たい飛沫がふくらはぎに刺さる。
息が荒い。
胸の奥が熱く、苦しい。
逃げているのは雨じゃない。
レンじゃない。
“問い”そのものだ。
――なんで隠したの?
――なんで一人で行ったんだ?
――なんで話してくれなかったんだ?
レンの言葉は正しい。
全部ただの正論。
でもそれが、どうしようもなく痛い。
だって。
“全部話したら、壊れるかもしれない何か”を、私は怖がっている。
ビルの軒下に飛び込んだ瞬間、私は膝に手をつき、肩で息をした。
雨音がざあざあと頭の中まで流れ込む。
「……何なのよ、私。」
呟きは雨に溶けて消える。
前の私なら、もっと冷静だった。
もっと、割り切っていた。
他人の言葉に揺らされるなんてなかった。
なのに今は――
レンが心配しただけで、胸が軋んで動けなくなる。
“私が私じゃない”――その感覚。
それこそが、記憶の空白に潜む何かに触れてしまっている証拠。
雨で冷えた手を、そっと胸に当てる。
そこだけ、嫌に熱い。
痛いほどに。
「……どうして、こんな……」
「どうしたんだ……イロハ」
俺から逃げるように、走り去っていくその背中を、ただ見つめていた。
雨は降っている。
それも、だんだんと強くなっていく。
髪や肩に雫が落ち、冷たさがじわりと身体を包む。
なにか、俺は気に障ることを言ったのか。
もしそうなら俺は、イロハになんてことをしたんだろう。
でも、どうして逃げたのかも分からない。
だから、一体どうすればよかったのかも、分からない。
雨は降っている。
人は、雨から逃げるように走り、
ある者は傘を開いて、濡れた地上に色を落とす。
俺は――
傘もささずに、ただそこに立っている。
雨は、降っている。
そこから数日が経った。私は、あの雨が降った日からレンには会っていない。
これは自分のせいなのよ。そうなの。
なのにどうして、こんなにも頭は熱いの?
今日は快晴。碧水の如く色鮮やかな空と裏腹に、私はいつまで経っても小雨。
ずっと、私しか知らない裏路地で、うずくまって時が経つのを待つだけ。
この街の人たちは、私という生物を知らないみたい。
いや、この世界が、私を忘れ去っているのか。
仕方ない。今や私のことをよく知る人なんて、きっと居ない。
社会的にも、存在しない。
「……」
いつまで、地面に座っているつもりだろうか。
レンは、私のことなど、どうでも良くなっているのか。別にそれでもいい。そもそも、私たちは関わり合う関係性では無いもの。
ただあの日に、私が助けて、レンが着いてきて、
レンの力について知って……戦って。
……ここにいたら、自分があまりにも惨めだ。
私が全て悪い。
私が全て悪い。
「……ぁ。そうだ。」
私は顔を上げて、静かに地面に手をついて立ち上がった。
少し、戻ってみようか。
彼処に。
燃え尽きて倒れたまま放置された木々、繁茂する草。
森の真ん中にあった、いちばん大きな木も、
今は枯れ果て、葉一本すら残っていない。
ただ――
ここが“確かに存在した”という事実を告げるためだけに、
律儀に立っているように見えた。
空は相も変わらず。
私も相も変わらず。
かつての、私の故郷。
月見の森。
人と妖精が共存していた、世界を支える役割も持っていたこの森は、今や誰も彼もに忘れ去られた。
私が旅立ったあの夜は、この森の終末の日。
私はその終末の瞬間を見ていない。
否、覚えていない。
乾ききった土を踏み、倒れた木々を飛び越えながら、ただ突き進む。
深呼吸をすると、少し頭の熱が収まっていく。
最初からここに来ればよかったんだ。
乾いた森を抜けた先で、
不意に、空気の質が変わった。
ひんやりとして、静かで、
音がすべて吸い込まれていくような感覚。
私は足を止める。
そこにあったのは、
鏡のように凪いだ湖だった。
水面は驚くほど澄んでいて、空の色も、枯れた木々も、
そして、立ち尽くす私自身も、等しく映している。
この湖の名は。
「……懺悔の湖。」
かつて、何度も耳にした名。
この森で罪を犯した者を沈め、
心の奥底に潜む“もう一人の自分”と向き合わせる場所。
逃げ場のない対話の果てに、
心が壊れる者も、少なくなかったという。
私は湖の縁に立ち、水面を見下ろす。
すると、不意に――
懐かしい声が、胸の奥で響いた。
『イロハは、この湖のお世話になることはなさそうだね』
くすっと笑うような、明るい声。純粋な桜の花弁のような色合いで、私がプレゼントした髪飾りをつけた一人の妖精。
『わたしも罪を犯さないよう、気をつけなきゃ』
あの日の私は、少し考えてから答えた。
『どうなのかしら。未来は分からないもの。
間違った道を進むかもしれないわ』
すると、少し間を置いて――
『大丈夫!』
弾むような声。
『その時は、わたしが止めるよ!』
……フユリ。
水面が、わずかに揺れる。
私は、湖に映る自分の顔から、目を逸らした。
「……今の私は、どうなのかしら。」
罪を犯していないと言い切れるほど、
私はまっすぐだろうか。
『大丈夫よ。』
また、声が蘇る。今度は、冷たく聞こえて、でも本当は暖かく、この森の核であり、もうひとつの世界の元守護者。
お母様。
夜縹の日に、お母様は私の頬を撫でながら、綻んだ。
『その時は、わたしも共犯よ。』
今思えば、どうして私の罪をお母様も共犯だと言って、共に罪を償おうとするのかしら。
大丈夫じゃない。
そう思ってしまう自分がいる。
「でも、それがお母様。」
私は、しゃがみ込み、
そっと湖の水面に指先を伸ばした。
ひんやりとした感触が、
皮膚越しに、心の奥まで染み込んでくる。
その瞬間。
としゃり、と地面を踏み歩く音が聞こえた。
もうこの森には、誰も訪れないはずなのに。
空気が歪んでいる。
明らかに普通では無い。
振り向こうとした、その時にはもう遅かった。
「バイバイ。」
男にしては高く、女にしては低い声。
耳にその声が届いた時、
強い力に背中を押され、
視界が反転した。
誰?
私は後ろにいる人の顔を見ることも出来ず、一直線に湖に身体を吸い込まれる。
水音が、すべてを掻き消した。
季節が夏だったことが不幸中の幸いで、あまり寒くは無いものの、目を開ければ、澄み渡る青い絶望の景色。
ここは懺悔の湖。
入れば最後、自分自身との対話を強いられる。
早く地上に戻らないと。
手を伸ばし、足をバタバタさせるも、余計に沈んでいく。
こうなるなら、ちゃんと泳げるように練習していたら良かった。
徐々に息が苦しくなる。酸素が欲しい。
口いっぱいに水が含まれ、身体も重たくなっていく。動くだけ無駄。沈むだけ。
酸素、生き物には酸素がなければ、生きることなんてできない。
このままだと、懺悔どころか、先に命が絶える。
視界の端が、徐々に暗くなっていく。
くる……し、
「ようこそ。」
突如誰かに首根っこを掴まれて、更に深く吸い込まれる。
……ん?ここは水中よ?
どうして、話し声が聞こえるの?
力を振り絞って振り返ろうとすると、
「ばぁ〜!」
と、気づけば正面に、少女が浮かんでいた。
目を細め、いたずらな笑みを浮かべている。水中でも、それがよくわかる。
その笑顔は、懐かしいほど自然で、
だからこそ、気持ちが悪かった。
髪は真っ暗闇のように黒く、瞳は炎のように赤く。
まるで私を、そのまま反転したような外見をしている。
あなたは誰?
苦しさに飲まれながら、心の中でそう言った。
少女は、私の手を握り、こう言い放った。
「“わたし”だよ。 “私”の罪の形。
逃げきれなかった、ね」
ここから先は、もう逃げられない。
その目を見て、私は全てを察した。
懺悔が、始まる。
第十六の月夜「私よ、懺悔を聞け!」へ続く。