テラーノベル
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#茜
💎星乃葵@ペア画中.ᐟ💎
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りおりんご🍎
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今中希美
28
大学病院のロビーは、製薬会社のそれとは空気の密度が違った。
天井が高く、待合の椅子が規則正しく並んでいる。診察を待つ人たちの声は、誰も大きくない。それでも、全体として、小さな音が絶えず動いている場所だった。
「仁人、もう来てるな」
勇斗が、ロビーの奥を顎で示した。
ベンチの端に、仁人が座っている。膝の上に資料を広げていた。
「ほんまに、早いですね、あの人」
「三十分前に着く人間だからな」
舜太は、勇斗の言い方に、ふと引っかかった。
まるで、ずっと前から知っているような言い方だった。
けれど、同じ会社にいたことがある、とは聞いている。それで、片づけた。
そのとき、廊下の向こうから白衣が歩いてきた。
柔太朗だった。
白衣のポケットに片手を入れて、もう片方の手にはバインダー。
看護師が声をかける。柔太朗は立ち止まって、小さく頷き、何かを短く返す。
次に、杖をついた年配の患者が会釈をする。柔太朗は、腰を少しかがめて、同じ高さで言葉を交わした。
舜太は、足が止まっていることに気づいた。
白衣を着た柔太朗は、スーツやジャケットの時より、輪郭がはっきりして見えた。
人が頼ってくる理由が、体で分かった気がした。先生と呼ぶ意味を、初めて知った。
「お前、固まってんぞ」
「……白衣、初めて見たんで」
「そんなに珍しいか」
「いや、珍しいというか」
その先の言葉を、自分でも持っていなかった。
「お疲れさまです。お待たせしました」
柔太朗が、二人に気づいて近づいてくる。
歩く速度は、いつもと変わらない。けれど、白衣の裾が、歩くたびに小さく揺れた。
診察室は、外来の合間の短い時間のために、整えてあった。
机の上には、電子カルテの画面と一枚の紙。
勇斗と仁人と舜太が、椅子に座る。柔太朗は、立ったまま紙を取った。
「患者さんの許可をいただいた、手書きの睡眠日誌のコピーです。個人が分かる部分は消してあります」
三人が紙を覗き込む。
升目に、数字が並んでいる。就寝、起床、途中で目覚めた回数。
その欄外に、小さな字で、書き込みがあった。
『四時に目が覚めて、天井を見ていた』
『今日は、何も書けない』
空欄の日が、二日続いている。
「これは、診察で、お見せしながら話すための一枚です」
柔太朗は、静かに言った。
「お薬の説明を、先にする必要は、ありません。ここに書いてある一行から話を始めるほうが、ずっと、通じます」
そして、三人のほうを見た。
「少し、前提を整理させてください。医師が診察の中で、アプリを使うかどうかを判断して処方する。そういう形の治療が、海外では珍しくなくなりつつあります。国内でも、糖尿病などの領域で、保険が適用されるアプリが、出始めています。ただ、睡眠の分野は、まだありません」
「僕のところにも、薬を飲みながら、それでも夜が長い方がたくさん来ます。選べる手段が少ないんです」
自分の声が少しだけ低くなったのを、柔太朗は聞いた。
仁人が、日誌の余白をじっと見ていた。
指先が、紙の端に触れるか触れないかのところで、止まっている。
「この方は、この余白を誰かに見せるつもりで、書きましたか」
「いいえ」
柔太朗は、即答した。
「たぶん、自分のために書いています。でも、診察室に持ってきてくれました」
「持ってくる、ということが」
「ええ。書くことと見せることは、別です。この方は、書いたものを持ってきてくれた。それが、診察の始まりです」
柔太朗は、続けた。
「記録できることと、本当に感じていることは、違うんです。数字は記録できます。でも、この余白に書かれたことは、数字にはなりません。そして、診察は、いつもそこから始まります」
仁人は、しばらく何も言わなかった。紙を見たまま、ゆっくり頷いた。
「……毎日の入力に、『今日は書かない』というボタンを、一つ足します」
「書かない、ですか」
「書けなかった、ではなく、書かない、という選択として残します。空欄にならないように。この方の『何も書けない』の日も、書けなかった日ではなく、書かなかった日として、扱えるようにしたい」
柔太朗は、息を小さく吸った。
「……書かない、も、一つの回答になる」
「ええ」
「それは、診察でとても使いやすいです。書かなかった日は、書かなかった日として残る。それ自体が、情報になります」
勇斗が短く聞いた。
「データ上はどう扱う?」
「欠損とは別の値で残します」
仁人が、即座に答えた。
「評価の集計では、欠損と分けて扱えます」
「それなら、問題ない」
勇斗が頷いた。
「毎日は、『書かない』を選べる。週に一度の画面に、任意の一言メモを置きます。書ける人は、そこに書く」
「週に一度なら、考える余裕がありますね」
「ええ。一週間分の夜を思い出しながら、書ける」
柔太朗は、仁人の無駄のない設計を静かに見ていた。
この人は、「書けない夜」をなかったことにしない。
その誠実さが、設計の骨になっている。そのことが嬉しかった。
「ありがとうございます。……この日誌の方に見せたいです」
「完成したら、見せてあげてください」
仁人は、少しだけ照れたように視線を逸らした。
三人が出ていったあと、柔太朗は、日誌のコピーをファイルに戻そうとして、手を止めた。
欄外の一行。『四時に目が覚めて、天井を見ていた』。
もし、自分が書くなら何を書くだろう。
そう思って、すぐに考えるのをやめた。
診察室の外で、自分の夜を診てくれる人はいない。
病院を出て駅へ向かう道で、勇斗は、さっきの日誌の一行を思い出していた。
『四時に目が覚めて、天井を見ていた』
不意に、別の朝が頭に浮かんだ。
どんなに夜遅く寝た日でも、あの人は、出発の一時間以上前には起きていた。
目覚ましが鳴る前に自分で目を開けて、窓を少しだけ開ける。
湯を沸かして、ゆっくりと朝を過ごす。本を数ページだけ、読む。
慌てて家を出るということを、絶対にしない人だった。
あの人にとって、眠れない朝は、きっと一番つらい。
そこまで考えて、勇斗は足を速めた。
関係のないことだ。今の仁人が眠れているかどうかなんて。
「勇斗さん、歩くの速いです」
「ああ、悪い」
追いついてきた舜太が、息を整える。
「昼、食ってないよな、お前」
「食べてないです」
「奢る。何か食べよう」
病院の近くの定食屋は、昼の時間を少し過ぎていた。
客の少ない店内に、焼き魚の匂いが残っている。
勇斗は、メニューも見ずに定食を二つ頼んだ。
「勇斗さん、俺、まだ何も決めてへんのですけど」
「焼き魚、嫌いだった?」
「好きです」
「じゃあ、いいだろ」
注文を終えて、勇斗は胸ポケットからペンを取り、紙ナプキンを一枚、引き寄せた。
一本、太い線を引く。左から右へ。
その線の上に、三つの印をつける。
治験、承認、保険適用。
「アプリは医療機器だ。承認は薬機法に基づく。まずここを通らないと、保険診察では使われない」
「はい」
「で、これが本線だ。表向きは」
次に、勇斗は、その線の途中から、細い線を二本、枝のように引いた。
「一本目。集まった匿名データをうちの本業の創薬に使う。患者がどんな夜を過ごして、どの薬がどう効くのか。新薬の探索に効く」
「……二本目は」
「匿名データそのものを、必要とする先に売る。治験は長いし、金がかかる。それまでの間に、投資の一部を回収できる、即効性のある出口を一つ持っておきたい」
舜太は、ナプキンをじっと見た。
「同意の取り方と、匿名化の線引きは」
「法務と詰める。それを抜きにはやらない」
即座に出た問いに、勇斗は小さく笑った。
この後輩は、最初に聞くべきことを聞く。
「仁人さんと、先生には」
「今は、言わない。法務と詰めて形になってからだ。隠してるんじゃない、順番だ」
勇斗は、ペンのキャップを閉めた。
「事業化の責任は、俺にある。ただ、この事業が成功するかどうかで、お前と俺は一蓮托生だ。だから、先に話した」
運ばれてきた定食に手をつけながら、勇斗は続けた。
「次の役員会の前に、法務の担当と飯を食っとけ。財務とは、売上より先に、いつ金が尽きるかの話をしていてほしい。薬機法の相談には、同席しろ。関係省庁と話すときは、数字より先に誰が困っているかを話せ。必要なら、議員を通して話を通すこともある。そこは、俺がやる。いずれ、舜太も」
「待ってください」
舜太は箸を持ったまま、手を上げた。
「勇斗さん、それ全部、俺がやる前提で話してません?」
「やる前提だけど」
「鬼ですやん」
「役員を説得するときは、三つ用意しろ。数字、物語、逃げ道。それが、どの役員にも効くから」
「聞いてへん、……いや、聞きますけど。メモ取ります」
舜太が、スマートフォンを取り出す。
勇斗は、ナプキンを、舜太のほうに押しやった。
「この事業の話だけじゃない。お前が、この先、どこまで行くにしても知っといて損はない。そのために話してる」
舜太の手が止まった。
勇斗は、焼き魚の骨を取りながら、続けた。顔は上げなかった。
「お前は、いずれこっち側に来る。俺はそう見てる」
しばらく、舜太は何も言わなかった。
軽口を探している顔だった。見つからなかったらしい。
「……焼き魚、冷めますよ」
「お前が言うな」
二人は黙って、魚を食べた。
勇斗は、店の前で電話を受けて先に歩いていった。
舜太は、一人で駅へ向かう道を歩いた。
紙ナプキンは折りたたんで、内ポケットに入れた。捨てられなかった。
いずれ、こっち側に来る。
そう言われて、嬉しくなかったと言えば嘘になる。
それなのに、胸の奥に重さがあった。
期待というものは、嬉しさと同じ量の重さを一緒に連れてくる。
あの人は、この事業のことだけを見ていない。
俺の先のことまで、見ている。
そう思うと、簡単には降りられなくなった。
この先、きつくなる日が来ても。誰かのために、環境を変えたいと思う日が来ても。
そこまで考えて、舜太は、ふと、足を止めた。
先生には言えんことが、一つ、増えた。
ロビーで、患者に腰をかがめていた白衣の背中が、頭に浮かんだ。
あの人に、隠し事を持つ。それが、思ったより重かった。
重い理由を、舜太は考えないことにした。
駅の改札が見えてきた。
コメント
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うわあ、このエピソード、すごく好きです。「書けない」を欠損じゃなくて選択肢として設計する仁人の誠実さがじんわり効いてるし、それに即座に「診察で使いやすい」と応じる柔太朗の臨床感覚の鋭さ。二人のプロフェッショナル同士の信頼が軸になって、そこに勇斗の事業眼と舜太の「言えないこと」が絡んでくる構造が美しい。勇斗がナプキンに描いた三つの印と枝線、あの場面の緊張感が忘れられません。