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第16話「川であそぶ」
その川は、音がしなかった。
流れているはずなのに、水音が消えていた。
水面は揺れていたが、それが風のせいなのか、誰かの気配なのかはわからなかった。
ナギは、川辺に素足をつけていた。
スニーカーを脱ぎ、裾をまくりあげたハーフパンツの膝に、薄く泥がはねていた。
ミント色のTシャツは乾いているようで、背中にだけじんわり重みが残っている。
「気持ちいい?」
ユキコが小石を並べながらたずねる。
今日のユキコは、うすい水色のワンピース。
膝までの丈のすそが、水面にふれそうでふれない。
座っているのに、足が水を押さないことが──ナギはもう、あたりまえのように受け止めていた。
「……冷たくないの。不思議」
ナギは言った。
「ここは、夏の中でも“温度”が記憶でできてるから」
ユキコは、石をひとつひとつ、ていねいに川の中へ沈めていた。
「なにしてるの?」
「“向こう”と“こっち”の目印をつくってるの」
「向こう?」
ユキコは答えなかった。
けれど、ナギはうすうすわかっていた。
それは、川のむこう岸のことではなく、たぶん“この町の外”を指していた。
ふと、ナギの耳に声がした。
風の音のようで、でもはっきり「ナギ」と呼んでいた。
川の向こう側──草がしげる茂みの奥から、誰かが手を振っていた。
「……ユキコ、誰かいる」
ユキコはそちらを見なかった。
「見るとね、引っ張られちゃうよ。水の下に」
「でも、声が──」
「それ、ナギちゃんの“前の名前”で呼ばれてるのかも。思い出すと戻れなくなるよ」
ナギは、ふと両手をにぎった。
右手には自由帳。左手には石ころ。
「わたし、戻れないの?」
「ううん。でも、いまは“遊び”の時間だよ」
ユキコが笑った。
だけどその笑顔は、ガラスに映った風景みたいに、ほんのすこしぶれていた。
ふたりは、しばらく水切りをした。
ナギが投げた石は、川をぴょんぴょんと跳ねた。
けれど、水音はしなかった。跳ねたのに、沈む音がしなかった。
ユキコは小さな葉を浮かべて、それをじっと見つめていた。
風も波もないのに、葉は向こう岸に向かって、ゆっくりと流れていった。
「ナギちゃんは、“どっち”に行くのかな」
「……どっちって?」
「ここにいたい? それとも……まだ」
「まだ、わからない」
ナギは答えた。
そのとき、彼女の影だけが、水面にはっきりと映っていた。
ユキコの影は──どこにもなかった。