ブラーニョ村に朝が来た。
まだ霧が地を這うように残る村道。茅葺屋根の上に小鳥が鳴き、鶏が寝ぼけ眼で鳴き返す。朝露をまとった土の匂いが、少しだけ冷えた空気に漂っている。
「ふぁぁぁあぁ、ねみぃなぁおい……なんだぁ昨日はぁ。イヌガミが出たってかぁ……」
昨夜の騒ぎを思い出して、納屋から出てきた男が頭を掻きながらあくびをする。寝ぐせもそのまま、鼻をすすり鍬を肩に担ぐ。
「古っるい言い伝えだのによぅ、イヌガミなんざぁ。」
そう呟く声に返すように、隣家の戸が開く。似たような寝ぼけ顔が現れる。
「小汚ぇ餓鬼のせいで、まともに眠れやしねぇやぁ!」
村の人々は、夜の出来事をもう昨日の話にしていた。鍬を握り鋤を持ち、眠気を引きずったまま家々から出ていく。畑に向かう足取りに危機感など微塵もない。
「おっかぁっよぃ、村さ降りて酒こうて来なっせぇ…」
「はーいよー」
陽気な妻たちの声があちこちの囲いから聞こえてくる。襷をきゅっと締め、編み笠を被って山道を下りていく。目的は町の茶屋。酒と、ついでの世間話と、溜め込んだ愚痴の解放。
茶屋では揚げ菓子をかじりながら、口の端を上げて亭主の不甲斐なさを笑って隣の誰かの話に茶を吹く。笑い声が溢れ、時折思い出したように話題は昨夜のイヌガミへと戻る。
その時、茶屋の隣にある祠の前では……
子供たちが輪になって遊んでいた。小さな声が調子外れでも一緒になって歌を紡ぐ。古くからこの村に伝わる唄だった。
「イヌガミ イヌガミ かぜまとう
かぞえりゃ 足音 六つ七つ」
その旋律に買い物袋を持った妻たちの足がふと止まる。
少しだけ、背筋に冷たいものが走る。
「イヌガミ?そういや、昨日のさぁ……」
ひとりが呟き、もうひとりが笑う。
「バカだねぇ、イヌガミなんて本当にはいないんだよ。あれは子供を寝かし付ける昔からの唄なのさぁ。」
場がほっと和らいだように笑いが広がる。
「それはそうとさ、あんたの旦那!昨日のさぁ、あれは相当激しぃ……」
「えっ!なんで知ってんのさぁ!?」
「ふふ、うちまで激しい声がぁ……」
「や、やだよ……もう、ほんとやめとくれ……」
笑いはますます大きくなり……
その裏、遠くで子どもたちの唄が続いている。
「しのばっけた しのばっけた
おやまのさきの かぜむこう」
空は少しずつ茜色に染まり、陽の落ち際が迫る。
「さて、日も落ちて来たみたいだね。そろそろ帰ろかねぇ?」
帰り道はまたあの妻をいじりながら。
足取り軽く笑い声を引き連れて、妻たちは村へ戻っていった。
「しのばっけた しのばっけた
ねむるおやまの そのさきで」
祠の裏にある民家、老婆が薪で風呂を沸かしている。
老婆は薪をくべながらも薪の爆ぜる音や湯の沸く音には耳を貸さず、唄にだけ神経を尖らせていた。
「あけちゃなんねぇ……」
夜が、再び……静かに降り始めていた。
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