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ケビンside
ピアノの鍵盤は、
こんなにも白かっただろうか。
触れなくなって、
何日が経ったか分からない。
楽譜を開いても、
音符はただの記号に見えた。
あの言葉――「君がいなければよかった」。
誰にも聞かれなかったはずなのに、
自分の耳の奥で何度も再生されて、
胸に鈍い痛みを残す。
(そんなこと、思ってたわけじゃない)
でも、あのときは、本当に限界だった。
母の言葉、部員たちの視線、
自分の中にあった
“普通”でいなきゃいけないという呪い。
そして何より――
史記が、傷ついた顔をしていたことが、
怖かった。
ピアノを離れてから、
日常は妙に静かだった。
授業を受け、家に帰り、食べて、寝る。
それだけの毎日。
音のない、空白の時間。
ある日、掃除中に机の下から何かが落ちた。
紙。……
見覚えのある、字だった。
「また、君の音が聴きたい」
ピアノ室に置かれていた、小さな手紙。
封筒もない、
ただのメモ用紙に書かれた言葉だったけど、
なぜだか涙が溢れた。
自分は逃げたのに、史記は、ここにいた。
ずっと、何通も――。
(こんな自分を、
まだ信じてくれようとしてた)
その夜、久しぶりにピアノの前に座った。
鍵盤に触れる手は震えていたけれど、
指が動き出すと、
不思議と音がこぼれてきた。
悲しさでも、寂しさでもなく、
ただ――誰かに届いてほしい音だった。
その誰かは、もう決まっていた。
史記side
ケビンの背中が遠くなるのが、
こんなにも怖いなんて思わなかった。
「君が、いなければよかった」
あの一言を、何度も何度も思い出す。
思い出すたび、胸が苦しくなる。
でも、不思議と憎しみは湧かなかった。
(それだけ、追い詰められてたんだ)
そう思った。
ケビンの静けさは、優しさでもあるけど、
同時に――
限界を押し殺して笑う強がりだったことを、
あとになって気づいた。
俺は、あのとき何も言えなかった。
ただ、あいつをこれ以上苦しめたくなくて、
そっと離れた。
でも、それでも、
何かを届けたくて、言葉にしたくて、
俺は手紙を書き始めた。
「また、君のピアノが聴きたい」
「俺は、今もあの午後の音が忘れられない」
「君がいない世界なんて、俺は知らない」
言葉がまとまらない日も、
ただ名前だけを書いた日もあった。
何通目だったか、分からない。
でも毎日、ピアノ室の椅子の上に置いた。
開けられていない形跡があっても、
それでも。
(伝わらなくてもいい。
君が、ここにいていいってことを、
ただ知っててほしい)
そう思った。
俺は、君の音で救われたから――
今度は、君の音を信じる番だった。
ある日の練習帰り、
ポケットの中にある一通の手紙を
握りしめながら、
俺はまたピアノ室の前に立った。
ドアは、閉まっていた。
でも、その奥から、
微かに音が聴こえた気がした。
(ケビン……?)
近づいて耳を澄ませた。
静かな和音。
迷いながら、それでも進む旋律。
まるで、誰かを探してるみたいな、
そんな音。
涙が出そうだった。
手紙をドアの隙間に挟んで、そっと呟いた。
「待ってるよ、また、あの場所で」
――そして、時間は流れていく。