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羽海汐遠
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バガラジー
132
空凪 せつな

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祭りから数週間が経った。
朝靄がまだ薄く残る時間帯、西棟の厨房には出汁のいい匂いが立ち込めていた。
窓の外では小鳥の声が響き、朝食の準備を進める鍋の湯気が、差し込む朝日に透けて揺らめいている。
焼き魚の身がじっくりと色づいていくのを見守りながら、イリアは黙々と手を動かしていた。
「……。」
鍋の前に立ったイリアは、朝食の下ごしらえに集中していた。
「ふぅ……。」
小さく息をつき、次の作業に取り掛かろうとした、その瞬間だった。
「イリア先輩!火が!」
「えっ!?」
プリムローズの声に振り返ると、鍋の中身が跳ねて、コンロの火が勢いよく燃え上がっていた。
「あっぶな……い……!」
慌てて火を弱め、事なきを得る。
心臓がどくどくと早鐘を打っていた。
「危なかったですわ〜……!」
プリムローズが胸を撫で下ろす。
「ごめんなさい、ぼーっとしてました……。」
イリアは苦笑いを浮かべながら頭を下げた。
「いえ……!」
(イリア先輩、疲れているのでしょうか…?)
窓から差し込む光が、少しずつ強さを増していく。
その時、階段の方から静かな足音が近づいてきた。
「……。」
「あっ、ナターシャさん。」
イリアが振り返り、明るく声をかける。
「……!」
しかし、ナターシャは何かに驚いたように、わずかに肩を震わせた。
その反応の硬さに、イリアはほんの一瞬、違和感を覚える。
「おはようございます。今日の朝食、焼き魚ですよ。」
「スープもありますわ!」
プリムローズも笑顔で付け加える。
「………う、うん。」
ナターシャは目を合わせないまま、ぎこちなく相槌を打った。
その表情は普段より硬く、どこか余所余所しい空気を纏っている。
「……。」
そして、そのままふらりと来た道を戻るように去っていった。
「……?行っちゃいましたわ……。」
プリムローズが目を丸くして、その背中を見送った。
「ナターシャさん、どうかしたのでしょうか……。」
イリアも訝しげに眉を寄せる。
「ちょっと様子がおかしかったですわね……。」
何かがいつもと違う、という違和感が拭えなかった。
「……それに……猫の耳がなかったですね。」
ふと気づいたその一言に、プリムローズもはっとした顔をした。
言われてみれば、あの特徴的な猫耳が、確かに見当たらなかった。
「た、確かにそうでしたわ……。」
「わたくしが様子を見てきましょうか?」
心配そうに申し出るプリムローズに、イリアは軽く首を振った。
「んー……多分大丈夫ですよ。」
「ナターシャさん、本当に何かあったらちゃんと報告してくれるので。」
これまでの積み重ねからくる、確かな信頼だった。
「それもそうですわね…!」
プリムローズも納得したように頷き、すぐに作業へと意識を戻す。
厨房には再び、まな板を叩く音と湯気の立つ音だけが満ちていく。
「えっと……胡椒ってどこに置きましたっけ……?」
イリアが辺りを見回しながら首を捻る。
「あそこの棚ですわ!」
「あぁ、そうでした……ありがとうございま……」
棚に手を伸ばしかけたところで、再び足音が響いた。
「……おはよ……。」
またもや、ナターシャがひょっこりと顔を覗かせる。
だが、先ほどとは打って変わって、いつも通りの気の抜けた声だった。
頭にはちゃんと、あの猫耳も乗っていた。
「…ナターシャさん?…あ、おはようございます……。」
イリアは一瞬戸惑いながらも、いつも通りに挨拶を返した。
「お、おはようございます…!」
プリムローズも慌てて使っていた調理器具を置く。
「?……ど、どうしたの。」
二人の様子に、ナターシャが不思議そうに首を傾げた。
「……あ、あたしの顔になにかついてる……?」
「い、いえ……!なんでもないですよ。」
イリアは咄嗟に取り繕うように笑った。
「…そっか……。」
ナターシャは特に気にした様子もなく、いつも通りキッチンの隅に腰を下ろす。
「……さっきのはなんだったんでしょうか……?」
プリムローズが小声でイリアに耳打ちする。
「……分かりませんけど…ナターシャさん本人に聞くのは……。」
「ですわよね…ここは踏み込まないでおきましょう……。」
二人はひとまず、その違和感を胸の奥にしまい込むことにした。
「おはようございます〜。」
やがて軽やかな声とともに、厨房の入り口にラグドールが姿を現す。
「えっ……。」
その姿を見た瞬間、イリアの手が止まった。
「ら、ラグドールさん……!?」
プリムローズも目を丸くする。
「……?何か……。」
当のラグドールは、きょとんとした顔で自分を見下ろした。
「そ、その髪型……。」
イリアが恐る恐る指摘する。
「あぁ……。」
「イメチェンですよ、イメチェン。」
ラグドールは事も無げに言い放つ。
いつものふわりとした長髪ではなく、あごの下で切り揃えられたすっきりとしたボブに変わっていた。
「イメチェン!なるほど……!」
イリアはひとまず納得したように相槌を打った。
「どうですか?似合ってますよね?」
「もちろん……!似合ってますよ!」
「び、びっくりしちゃいましたわ〜……。」
「髪を切るだけでこんなにも印象が変わるんですわね!」
プリムローズが胸を押さえながら息をつく。
「ですね〜、別人かと思いましたよ!」
「イリアさんたちを驚かせたくて。」
ラグドールは満足げに微笑んだ。
「おはよー。」
「……おはよう。」
続いて現れたミシェルの後ろに、意外な人物が続いていた。
「えぇ……?」
イリアが思わず声を漏らす。
「ヴ、ヴェルクさん……。」
プリムローズも驚きを隠せない。
普段は自室にこもり、なかなか姿を見せないなヴェルクが、朝食の場に姿を見せることは珍しかった。
「あぁ、なんか部屋から出てきたんだよね。」
ミシェルが軽い調子で肩をすくめる。
「そうなんですか……?」
「そうだよ。」
ヴェルクは短く頷いた。
「なんで急に……。」
「気分。」
素っ気ない返事に、イリアは戸惑いながらも受け入れることにした。
「…気分ですか……。」
「まぁ降りてきてくれて良かったですよ……。」
「……って言うことは……久しぶりに全員集まって朝食ですわね!」
プリムローズが嬉しそうに手を叩く。
「そうですね〜……!」
「もっと豪華にすれば良かったかな……。」
イリアも笑顔で頷きながら、ふと考え込むように呟いた。
「とりあえず、もうちょっとで朝食できるので待っててくださいね。」
「……何その髪。」
ミシェルがラグドールの髪型を見て、無遠慮に指摘する。
「イメチェンですよ。わかりますか?」
「だいぶ印象変わりますよね〜?」
「……。」
ミシェルは無言のまま、興味なさそうに視線を逸らした。
「無視は酷くないですか……!?」
ラグドールが不満げに声を上げる。
◇
やがて、湯気の立つ料理が一通り食卓に並び終わった。
「よし、皆さーん!朝食できましたよー!」
イリアが調理器具を片付けつつ、皆に声をかけた。
「…まだローラさんとララビットさんが来てませんわね〜……。」
プリムローズが二人分の席を見て呟く。
「昨日お二人で呑んでたみたいなので……。」
「な、なるほど……!お酒……大人ですわ〜……!」
プリムローズが妙な感心の仕方をする。
「酔いつぶれるのは勘弁してほしいですけどね……。」
「とりあえず今はそっとしておきましょう。」
「わかりましたわ!」
あらかた片付けを終え、イリアがふと動きを止めた。
窓から差し込んでいた朝の光が、いつの間にか雲に翳り、食堂の隅にわずかな陰影を落としていた。
「……。」
視線が、食堂の隅の暗がりへと吸い寄せられる。
何かが、そこにいる。理由もなく、そう確信させる気配だった。
「……?」
「誰かいるんですか?」
その様子に、プリムローズも不安げに振り返った。
「…?イリア先輩?」
「……どうしたの……?」
ナターシャも怪訝そうに顔を上げる。
「……誰かいる。イリア、念の為に……」
ミシェルの表情が、わずかに強張った。
薄暗い隅から、ゆっくりと人影が滲み出るように現れる。
それは――イリアと寸分違わぬ姿をしていた。
同じ髪、同じ顔立ち、同じ立ち姿。
ただ一点、その口元に浮かぶ笑みだけが、イリアの知らないものだった。
「…ふふ。」
暗がりから、笑い声が漏れる。
それは、この場にいる誰のものとも違う、しかし――イリア自身の声によく似た響きだった。
その声を聞いた瞬間、イリアの背筋を、得体の知れない悪寒が駆け抜けた。
「……私が……いる……?」
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作者コメント┊︎ ここからの回は1つの区切りだと思ってください。色々なことが起こるので
第四十二話『居る』、読み終えました。朝の厨房の温かさからじわじわと異質な空気が忍び寄ってくる構成が印象的でしたね。特に、ナターシャの猫耳が消えていた場面と、ラグドールのイメチェンがまるで二重の“別人感”を強調していて、あの最後の「私が……いる……?」にはぞっとしました。ミシェルが無意識に警戒したのも納得です。まだまだ油断ならない展開になりそうで、続きが気になります!