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『第四話 優等生の息抜き』
──
「お母さん、早めに帰ってきてくれて良かったね」
時計を見ると、もう夜の七時を回っていた。
「ええ、本当は八時くらいの予定だったんですけど……」
千夏はスマートフォンを操作しながら答える。
「急に早く帰宅したみたいで。それで私が家にいないから心配になったみたいです」
「なるほどな」
「お向かいさんにいます、とだけ伝えたんですけど」
千夏は少し気まずそうに笑った。
「それだけだと心配になるよな、普通」
「でも、男の人の部屋って言ってないんですけど……」
「え?」
悠真は固まった。
それを今言うのは、果たして正解なのか。
スマートフォンが小さく震える。
千夏は画面を見て、表情を曇らせた。
「どうした?」
画面を見せる。
そこには母からのメッセージが表示されていた。
『お向かいさんに、ご迷惑かけて!本当に、ご挨拶行かなくていいの?』
悠真は苦笑する。
「大変そうだな」
「いつものことです」
千夏は明るく答えた。
だが、その言葉が少しだけ寂しそうに聞こえた。
靴を履き終えると、千夏は深々と頭を下げた。
「お邪魔しました」
律儀だな、と悠真は思う。
高校生なら「じゃあねー」で帰る子も多いだろう。
けれど、すぐには帰ろうとしなかった。
何か言いたそうに立っている。
「どうした?」
「えっと……」
珍しく歯切れが悪い。
「また来ても……いいですか?」
悠真は思わず笑った。
「いちいち許可いらないよ」
「いります」
「なんで」
「だって迷惑かもしれないし」
その返答が意外だった。
彼女は自信家ではない。
むしろ逆だ。
周囲に気を遣いすぎている。
「迷惑なら最初から家に入れてないよ」
そう言うと、千夏は安心したように笑った。
「よかった」
その笑顔は今日一番自然だった。
──翌日。土曜日。
昼過ぎにインターホンが鳴った。
ドアを開けると、予想通り千夏が立っていた。
しかし制服姿で様子がおかしい。
「どうした?」
「何でもないです」
「絶対何かある顔してる」
「そんな顔してません」
している。
ものすごくしている。
ピスカが玄関まで迎えに来た。
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猫塚ルイ

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千夏はしゃがみ込んで猫を抱き上げる。
「こんにちは、ピスカちゃん」
猫を抱く手が少し強い。
緊張している時の癖だろうか。
部屋に入ってしばらくしても、千夏は元気がない。
本を開いても読んでいない。
テレビをつけても見ていない。
ピスカを撫でながら考え事をしている。
「今日は学校?何かあった?」
悠真が聞くと、
千夏はびくっと肩を震わせた。
図星だったらしい。
「分かりやすいな」
「そんなことないです」
「いや、ある」
千夏はしばらく黙った。
やがて小さくため息を吐く。
「私」
窓の外を見ながら呟く。
「優等生だと思われてるんです」
「実際そうなんじゃないの?」
「違います」
即答だった。
「全然違います」
その声は少し強かった。
「テストも勉強してるから点取れるだけなんです」
「それは努力してるってことだろ」
「でも皆は勝手にできると思ってる」
「うん」
「失敗しないと思ってる」
千夏は膝を抱える。
「だから失敗すると、すごく恥ずかしいんです」
部屋が静かになる。
ピスカだけがのんびり尻尾を振っていた。
「……今日は土曜授業の日だったんですけど」
千夏は続けた。
「授業で答えられなかった問題があって」
「うん」
「たったそれだけなのに」
彼女は苦笑した。
「すごく落ち込んじゃいました」
悠真は少し考える。
それからコーヒーを一口飲んだ。
「じゃあ俺の勝ちだな」
「え?」
「俺なんか毎日失敗してる」
千夏が顔を上げる。
「昨日も怒られたし」
「本当ですか」
「一昨日も怒られた」
「一昨日も?」
「先週も怒られた」
千夏が吹き出した。
「それ威張ることじゃないですよ」
「だろ?」
二人で笑う。
「でもな」
悠真は言う。
「失敗しない人なんていないよ」
千夏は黙って聞いている。
「皆、見えないところで失敗してるだけだよ」
しばらく沈黙が続く。
やがて千夏がぽつりと呟いた。
「私」
「うん」
「ここに来ると楽なんです」
悠真は何も言わない。
「学校だと、ちゃんとしなきゃって思うから」
「うん」
「でも、ここだと失敗してもいい気がします」
その言葉に少し驚いた。
自分の部屋なんてただの一人暮らしの部屋だ。
特別なものじゃない。
それでも。
この子にとっては息を抜ける場所になり始めているらしい。
「だから」
千夏は少し笑う。
「落ち込んだら、ここに来ることにします」
「勝手に決めるなよ」
「もう許可は取りました」
「え、いつ?」
「昨日です!」
得意そうな顔だった。
悠真は思わず吹き出す。
ピスカはそんな二人を見て、どうでもよさそうに首筋を後ろ足で掻いていた。
口には出さなかったが、悠真はそう思っていた。
ここが、この子にとって素の自分でいられる場所になればいい、と。
──続く
コメント
5件
気が抜ける居場所を見つけられ、それを提供出来る主人公。 好きな関係性です😄
悠真さん、尊敬します✨️ 「みんな見えないところで失敗している」 まさにその通りだと思います。
悠真さんの「俺なんか毎日失敗してる」からの連続ツッコミ、千夏ちゃんが吹き出すシーンがすごく自然で温かくて、読んでて私も思わず笑顔になりました。優等生としてのプレッシャーを抱える彼女が「ここに来ると楽」と言えたのが何よりの成長で、悠真さんの部屋が彼女にとっての「息抜き」の場所になっていく過程が丁寧に描かれていて素敵です。