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草原草原(くさはらそうげん)

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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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若草色の着物は、五月に入ってすぐに仕上がった。
呉服屋の番頭が包みを広げたとき、文が「わあ」と言って、お初に「文」と止められた。千歳は何も言えなかった。畳の上に広げられた若草色は、反物のときより、もっと明るく見えた。
「袖は、長めに」
番頭が言った。玲司の言いつけどおりに、袖が長い。
千歳は袖を取って、腕を通した。袖口が、手首を隠した。右手の甲が、完全に袖の中に入る。
「お似合いでございます」
番頭は言って、もう一枚、小さな包みを出した。
「旦那様から、これも」
手袋だった。白い、絹の手袋。園遊会用だ。
千歳は手袋を見た。玲司は、袖を長くしろと言った。それで足りると思っていた。足りないと、思い直したのだろうか。それとも、袖では隠しきれない場があると、知っているのか。
手袋を、する。
決めたのは千歳だった。誰にも聞かれなかった。千歳は手袋を右手にはめてみた。痕の上を、絹が覆う。何も見えない。十年、布で巻いていたのと同じだ。同じなのに、違った。これは、藤乃が巻いた布ではない。自分で、はめた。
「奥様、髪を」
お初が櫛を持って来た。若い頃に髪結いの手伝いをしていたと、文が言っていた。
鏡台の前に座らされた。お初の手は早かった。髪が持ち上げられ、前が張られ、簪が差される。千歳は鏡の中の自分を見た。
知らない人だった。有明の女中部屋の鏡には、こんな人はいなかった。
「奥様、きれい」
文が言った。お初は止めなかった。
「腕を」
広間で、玲司が言った。
千歳は若草色の着物で、手袋をはめて、玲司の前に立っていた。玲司は洋服だ。園遊会では、夫人は夫の腕を取って歩く。それを千歳は知らなかった。知らないことを、玲司は知っていた。
「ここに」
玲司は左の腕を、少し曲げた。
千歳は右手を伸ばした。手袋の手だ。玲司の袖の下に、手を添える。
触れた。
硬かった。腕の、骨の感じがした。それから、布を通して、熱が来た。
手が、震える。
震えているのが、自分でも分かる。袖の上から、玲司にも伝わっているだろう。千歳は引こうとした。
「それでいい」
玲司は、千歳の手を見なかった。前を見ていた。
「歩け」
歩いた。広間の端から端へ。玲司の歩幅は大きい。千歳は遅れた。玲司が歩幅を縮めた。縮めたことを、玲司は何も言わなかった。
端まで来て、戻った。二度、三度。
三度目に、震えが止まった。止まったことに、千歳は気づかなかった。気づいたのは、玲司が「それでいい」ともう一度言って、腕を外したときだ。
「当日は、私から離れるな」
「……はい」
「離れても、誰かが手を出す前に、戻れ」
手を出す。誰かが、千歳の手袋に。
玲司はそれ以上言わず、書斎へ行った。千歳は広間に残って、手袋の右手を見た。玲司の袖の熱が、まだ、手袋の中にあった。
「有明のお嬢様、女学校で、ひとりぼっちなんですって」
文の噂は、縁側で始まった。
「身代わりの家の娘、って。お友だちのお母様方が、お嬢様と口をきかないようにって。それに、月謝も遅れてて」
千歳は針を持っていた。足袋は三足とも終わって、今は玲司の襦袢の襟を縫っている。お初が「これも」と持ってきたものだ。
「お嬢様、毎日、一人で帰ってるそうですよ。市電にも乗らないで、歩いて」
梢が、一人で歩いて帰る。
千歳は針を止めなかった。梢と並んで歩いたことは、一度もない。梢は人力車で、千歳は後ろから荷物を持って歩いた。梢が一人で歩く姿を、千歳は知らない。
嬉しくはなかった。ざまあみろ、とも思わなかった。ただ、梢は、人の振袖を着て、人のいない道を歩いている。それを、藤乃は、どう見ているのだろう。
「奥様」
廊下から柘植の声がした。千歳は針を置いた。
柘植は紙を持っていた。時計を見て、懐に戻してから、紙を差し出した。
「鷲宮家からの、当日の招待客の名簿でございます。奥様にも、お目通しを」
名簿。千歳は受け取った。名前が、何十と並んでいる。華族の名前だ。知っている名は、ない。
下のほうに、有明藤乃、とあった。
その名の上に、線が引かれている。墨で、一本。
「鷲宮家が、お外しになりました」
柘植は言った。
「親族会のことが、伝わったようでございます」
藤乃は、来ない。千歳は線を見た。藤乃の名の上の、一本の線。藤乃がこれを知ったら、どんな顔をするだろう。損を数える顔だ。
目を、下に移した。
桂木子爵家。その下に、客として連なる名が、いくつか。
その中に、あった。
有明梢。
千歳の指が、その名の上で止まった。
「柘植様」
「はい」
「梢は、どうして。有明の名は、外されたのでは」
「有明家としてではございません。桂木子爵家のお客として、お名前が」
柘植は時計を出しかけて、やめた。
「理由は、私も存じません。桂木家と有明家に、お付き合いがあったとは聞いておりませんが」
千歳は名簿を持ったまま、縁側の向こうの庭を見た。梅の木。離れの屋根。
梢は、来る。藤乃の名に線が引かれたその日に、人の家の客として、人の振袖を着て、千歳の前に立つ。千歳は若草色の着物を着て、手袋をはめて、玲司の腕を取っている。
何を言われるか、分かる気がした。分かる気がして、手袋の中の右手が、少し汗ばんだ。
「奥様」
柘植が言った。
「当日は、私も参ります。旦那様のお供として」
千歳は柘植を見た。柘植は時計を見なかった。見ずに、頭を下げて、廊下を去った。
コメント
1件
うわあ、もう読み終わったけど胸がいっぱいすぎて叫びたい…!😭💕 若草色の着物に袖を通す千歳が、自分で手袋をはめるシーン、涙出た…。藤乃の布じゃなくて、自分の意志で選んだんだなって思うとエモすぎる。 玲司の腕に初めて触れたときの震えとか、「それでいい」って言う玲司の優しさとか…もう全部が尊すぎてヤバい。しかも最後に梢の名前が出てきて次回どうなるの!?続き待ってます!🤲💖