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如月倫子の事件から程なくして、湊は退院した。絶食後の最初の食事は、多摩さんが丁寧に作った味噌汁だった。その上澄みが、まるで命のエキスのように、湊の身体の隅々までゆっくりと染み込んでいく。ほのかな塩気と出汁の香りが、弱った身体に優しく広がり、湊は思わず涙した。
「こんな美味いもの、初めてだ」
呟くと、多摩さんは柔らかい笑顔で、健康第一ですよ、仕事ばかりじゃ駄目ですからね。とたしなめた。「分かったよ」と湊も笑い返し、二人は穏やかな時間を共有した。だが、その矢先だった。笑い声がまだ部屋に響いているような瞬間、湊の腰に鋭い痛みが走った。顔を歪め、膝をつく湊に、多摩さんが慌てて駆け寄る。「湊、大丈夫!?」菜月の 声が震え、部屋の空気が一瞬で凍りついた。
「湊さん、速達ですよ」
多摩さんから手渡された封筒は、入院していた県立中央病院からの書面だった。
「あれ」
「どうしたの?」
「検査の予定が早くなってる」
「なんで?」
「分かんない」
大腸内視鏡検査の予約は半月先だった。
「1月10日だって」
「私も着いて行って良い?」
「冷えるから駄目!家でじっとしていて!」
「はぁい」
診察室に呼ばれた湊は、その雰囲気に気圧された。
ピッピッピッ
規則的に響く機械音が、静かな診察室にこだまする。白い逆光の中、白髪で銀縁眼鏡の医師が、落ち着いた仕草でモニターを湊へと向けた。マウスがゆっくりと弧を描き、黒い画面に映し出されたのは、輪切りにされた身体の断面――骨格、内臓、筋肉、脂肪が、まるで解剖図のように鮮明に浮かび上がる。そこに、白い影がポツポツと散らばっていた。医師の目は鋭く、しかしどこか穏やかで、湊の表情を静かに観察しているようだった。
湊は息をひそめ、画面を見つめた。白い影は、まるで夜空の星屑のように不規則に点在し、どこか不気味な美しさを持っていた。あの影は何だ? 湊の心臓が一瞬早く脈打つ。医師は無言でマウスを動かし、画像を拡大していく。影の輪郭がよりはっきりし、湊の視線はそこに釘付けになる。機械音が一層規則的に響き、部屋の空気を重くする。医師が口を開く。「これが、見つかったものです」。その声は静かだが、どこか重々しく、湊の胸に冷たく響いた。
診察室の空気はひんやりと静まり返り、窓から差し込む光だけが、微かに揺れていた。湊は自分の身体がまるで他人事のように感じられ、画面の中の白い影に意識が吸い込まれる。医師の指がモニターを軽く叩き、影の一つを指し示す。「ここ、わかりますか?」。湊は頷くこともできず、ただ医師の言葉を待った。機械音が刻むリズムだけが、時間の流れを刻んでいるようだった。湊の頭の中では、過去の記憶と未来への不安が交錯し、白い影がその中心に浮かんでいた。
「綾野湊さん」
医師は、手元のカルテに目を落とした。
「はい」
「違和感を感じたのはいつ頃からですか」
「昨年の4月頃です」
「食欲が落ち始めたのはいつですか」
「6月の終わり頃です」
湊は、菜月と賢治の離婚で気を揉んでいたからだと、思っていた。
「胃が傷み出したのは」
「8月のお盆、です」
それは、会社立て直しの激務による、ストレスでの胃痛だと思っていた。
「背中や腰の痛みはありましたか」
「10月になってからです」
「それで昨年末に下血された」
「はい」
医師は淡々と問診を続けた。
「ご家族やご親戚でこのような方はいらっしゃいましたか」
「父が、父が・・・それで」
膝の上で握られた湊の拳の中はじっとりと汗ばんだ。
「綾野さん」
「はい」
「所見としては悪性の腫瘍」
「はい」
湊の胸は鷲掴みにされた。
「進行具合はステージ3、腹腔内への浸潤が見られます」
「は、はい」
「胃癌と診断されました」
湊の頭の中を医師の言葉が通り過ぎては消える。静かな声が、冷たく重い残響となって反響する。絶望が胸の内で渦を巻き、まるで暗い海の底に引きずり込まれるようだった。
ふと、菜月の笑顔が脳裏に浮かぶ。無垢で温かなその笑みが、湊の心を一瞬だけ照らすが、すぐにバラバラと崩れ、ガラスの破片のように散らばって落ちていく。
湊は膝の上で拳を握りしめた。指の関節が白くなるほど力を込め、震える手を抑えようとした。診察室の無機質な空気が、湊の息をさらに重くする。医師の銀縁眼鏡が光を反射し、モニターの白い影が再び視界に迫る。
「綾野さん、大丈夫ですか?」医師の声が遠く聞こえ、湊は答える言葉を見つけられない。拳を握る手に、汗がにじむ。菜月の笑顔をもう一度見たい・・・・その思いだけが、湊を絶望の淵から繋ぎ止める。だが、医師の次の言葉が、その希望をさらに揺さぶる。治療には時間が必要です。湊の拳がわずかに緩み、膝の上で開く。菜月の笑顔を胸に、湊は静かに目を閉じた。
赤松の雪吊りからバサバサと湿った雪が落ち、庭に鈍い音を響かせる。座敷は悲壮な空気に包まれ、まるで時間が凍りついたかのようだった。
菜月の震える手には、2人の名前が印字された新しい戸籍謄本が握られている。紙の端がわずかに折れ、彼女の指の震えに合わせて揺れる。ゆきは着物の袖で口元を覆い、涙を隠すように顔を伏せた。その瞳は、感情を押し込めたまま、畳の目をじっと見つめている。多摩さんは声を押し殺し、茶の間へと踵を返した。彼女の足音は静かだが、どこか重く、座敷の空気をさらに締め付ける。
外では雪が降り続き、赤松の枝が重そうに揺れる。戸籍謄本に記された名前が、菜月の心に鋭く突き刺さる。
誰も言葉を発しない。沈黙が、雪の落ちる音と交錯し、座敷を重い静寂で満たす。多摩さんが茶の間から戻ると、手には湯気の立つ茶碗が。だが、その温もりも、座敷の悲しみを溶かすには至らない。
「父さん、ごめん」
郷士は座敷テーブルに身を乗り出した。
「間違いないのか!」
「間違いない」
「悪性だと医者は言ったのか、本当か!」
「胃癌のステージ3だって」
「治らないのか、手術は出来ないのか!」
郷士の顔色は青ざめていた。
「もう拡がっている」
「どれだけ生きられるんだ」
「5年か、10年か、わからない」
菜月は、湊の背中を握り拳で叩いた。
「どうしてもっと早くに病院に行かなかったの!」
「ただの胃炎だと思っていたんだ」
湊の両肩を掴み、前後に振った。
「湊!如何して!」
ゆき がその腕を引き剥がすと胸に抱き締めた。
「菜月さん、湊のパパも胃癌だったの」
「…………!」
「分かっていたのに」
ゆき の目は後悔に苛まれていた。
「そんな事分かっていたのに!」
「母さん」
「遺伝するかもしれないとわかっていて。どうしてもっと早くに検査を!」
「母さんのせいじゃないよ」
沈黙の中、湊が口を開いた。
「抗がん剤治療は最低限にしたい。僕は綾野の家に居たい」
「入院はしないの」
「自然に任せたい」
湊の頬に涙が伝った。
「ごめんね、菜月」
ゆきがそっと手を伸ばし、菜月の肩に触れる。その手は冷たく、しかし優しかった。大丈夫よ。とゆきが囁くが、声はかすれ、すぐに雪の音にかき消される。菜月は頷こうとするが、首が動かない。戸籍謄本の文字が、まるで白い影のようにぼやける。赤松の雪がまた落ち、座敷の悲壮な空気は、誰もが息をひそめる中で深まるばかりだった。
降り頻る雪が、静かな夜の静寂を柔らかく包む。菜月と湊は庭の鹿威しに耳を傾けた。その澄んだ音は、竹が水を打つたびに、どこまでも透明に響き渡り、胸の奥に沈む悲しみをそっと遠ざけてくれるようだった。菜月は湊の手を握り締めた。冷たい雪の空気の中で、湊の指がゆっくりと絡まり、脈打つ熱い血潮が菜月の掌に伝わる。その温もりに、菜月の心は一瞬、現実から解放された。
「菜月」
「なぁに」
湊は菜月の目を見つめながら、その温もりを確かめるように、小さく微笑んだ。
「温かいね」
「うん、温かいね」
菜月は、痩せ細った湊の肩に毛布を掛け直し、そっとその髪を愛おしげに撫でた。雪あかりが窓から差し込み、湊の横顔を淡く照らす。その顔は儚く、まるで雪のように今にも消えてしまいそうだった。菜月の指は、湊の髪をなぞりながら、かすかな温もりを確かめるように動く。庭の鹿威しの音が、夜の静寂に澄んだ響きを刻み、部屋の空気を柔らかく揺らす。だが、湊の頬は冷たく、菜月の胸に不安が広がる。
「ねぇ湊、春になったら旅行に行こう」
「何処が良いの」
「富山城の桜並木が見たいな」
菜月は両手を天井に向けて広げると、まるで桜並木を仰ぐように目を輝かせた。けれど目頭には熱いものが込み上がった。
「良いね、僕も大学のキャンパスに行ってみたい」
「湊の借りていたアパートもあるかな」
「探してみよう」
「うん」
湊の声は小さく震えていた。
「夏になったらどこに行く?」
菜月が湊の肩に掛け直した毛布をそっと整えながら尋ねた。雪あかりが部屋を淡く照らし、庭の鹿威しの音が静寂に響く。
「そうだなぁ、キャンプが良いな」
そう、湊は答えた。声は弱々しいが、どこか懐かしさに温もりが宿る。「小さい頃、みんなで行ったね」と菜月が微笑む。湊の目が遠くを見るように細まり、「大きな魚が釣れたよ」と呟く。「えぇ、そんなに大きかった?」菜月の声に軽い笑いが混じる。湊は痩せた手をゆっくり広げ、記憶の中の魚の大きさを示した。菜月はふっと笑い、指で小さな魚の形を作った。「私の記憶じゃ、こんな小さかったよ」と茶化す。湊の唇に微かな笑みが浮かんだ。
「そんなに小さかった?」
「小さかった」
菜月は涙が溢れるのを必死に堪えた。
「秋はどうしようかなぁ」
「え、湊、忘れたの!」
「なんだっけ」
菜月はやや膨らみを感じる下腹に湊の手のひらを導いた。
「あ」
「そうよ、赤ちゃんが生まれるんだから大変よ」
「そうだった」
「男の子かな、女の子かな」
「男の子だよ」
湊は優しく微笑んだ。
「なぁに、予言?」
「男の子、これからもずっと菜月を守ってくれるよ」
「そう」
「そうだよ」
菜月の頬に涙が溢れた。
「冬はね」
「うん」
2人は儚い未来を語り合った。雪あかりが部屋を淡く照らし、庭の鹿威しの澄んだ音が静寂に響く。菜月は湊の痩せた手に自分の手を重ね、冷えた指に温もりを伝えた。