春が少しだけ早く訪れた「MORI」のドアが開く音に、大森は振り返った。
香水ではない風の匂いが、ふわっと入り込んでくる。
「遅くなりました」
「そろそろ来ると思ってた」
藤澤は苦笑いしながら入ってきて、いつものカウンターに腰を下ろした。
今日は香水を纏っていない。けれどそれがもう“大森にとっての正解”だった。
「この前の処方、“After glow”。ついに使い切りました」
「そっか。次はなんの香水にしようか」
「いえ、もういらないです」
「…え?」
「香り、なくても思い出せるから。大森さんへの気持ちも、大森さんの顔も、触れられた距離も──ちゃんと、記憶になってる」
「反則だよ涼架…そういうこと真顔で言わないで。キスしたくなる」
「してもいいですけど、今店営業中ですよ?」
「……あとで」
静かに笑い合うふたりの前に、1冊の調香ノートが置かれる。
それはずっと大森がつけてきた藤澤に関する香りの記録だった。
「ねえ最後にこの子の名前、涼架につけてほしい。」
「ぼくが?」
「うん。君の言葉でこの恋に名前をつけて」
藤澤はペンを受け取り、ノートを見つめた。
1ページ目に書かれた「Ryouka No.1」から、最後の空白ページまで──
数秒の沈黙。
そして、藤澤はゆっくりペンを走らせた。
Ryouka No.7 “Recollection”
──記憶の中でも香り続けている恋
「うわ、ずるい。また僕が好きになっちゃうじゃん」
「もともと好きだったじゃないですか」
「そうだけど、今のは更新された感じ。今日も涼架に落ちた」
「…ぼくもです」
その夜、ふたりは店を閉めていつものように歩いた。
香水は持っていなかった。
でも、それでも良かった。
「ねえ、大森さん」
「ん?」
「この恋、僕の中ではもう“香り”じゃなくて、“体温”です」
「じゃあもう調香師の出番ないじゃん」
「でも、大森さんじゃないと意味がないんです」
「…はい、また惚れた。何回目だよ」
不意に藤澤が足を止める。
「ねえ、大森さん」
「ん?なあに」
「ぼく大森さんのことが、好きです」
その言葉は、思っていたよりもずっと静かででも確かだった。
香水みたいに、胸の奥にじんわりと広がっていく。
春の風が通り抜ける夜道、ふたりの間には香水じゃない香りが漂っていた。
言葉も、香りも、ふたりで過ごした時間も──全部、大切なひとつの想いとして心に残っていく。
この先ずっと──
沈丁花の香りを、君に END