【廿弐話】
そそくさと器を並べ、朱色の液体が注ぎ並べる志津子さんに野々村が問う。
「確か、容子さんとやらがお使いになっていた脱脂粉乳が在ったのでは無いですか?土間の戸棚に小瓶が在りましたよね。僕も使わせて頂こうと――」
「あれは――腐っておりますので――。」
「粉末なのにですか?」
「水気が入りましたもので――」
「――貴方が入れたのでは無いですか?」
志津子さんは動作が止めてゆるりと野々村を見た。
「――どう――云う――」
「白い液を入れたのでは無いのですか?――桃色の華が咲く木の汁を――」
すでにそう云われる予想はされていたのだろう。
彼女は少し血の気の引いた顔で
「何が言いたいのですか?」と柔らかく聞き返した。
「意味は貴方が一番お分かりでしょう。
土間から見える桃色の――あれは――」
「毒が在るとか無いとか――遥が云ってましたわね。私は別に――」
「何故捨ててしまわなかったのです。」
「捨てる?捨てるも何も――何の事か――」
「扱いが分かりませんでしたか、それともまだ〝不要〟とはお思いになりませんでしたか――」
作業を続けようとしていた志津子さんの動きが再び止まった。
「夕べの包み、調べればあの人に行き着くでしょうね。
あの特別な――遥さんの――」
顔色が変わった。
酷く青く憔悴していた彼女の顔の色が見る見る内に赤くなる。
「何を仰っているのか判らないわ。判らないけど例え此処で何が起きたとして――あの人は何も関係無いでしょう!」
語尾が強くなる。彼女の弱点を突いた様だ。
しかし父親の話になると取り乱す志津子さんのその姿に胸が痛み、その娘を見た。
娘は、遥さんは、凍りついた様な表情を貼り付けたまま母親を見つめていた。笑うでも無く、泣くでも無く。まるで能の女面の様な表情だった。
「貴方は何も知らないまま、遥さんにあんな薬を飲ませたのであれば!
何も知らない貴方にあんな薬を渡したのであれば!それは誰の罪かは明白では無いですか。知らせなかった人間の――」
「――知っておりましたとも!少なくとも真の使い方はあの人から聞きました!私が勝手に!」
声の余韻が部屋を包み、ゆるゆると消えた。
言葉と共に彼女の魂か力を半分吐き出して仕舞ったかの様に彼女は脱力した。
「――勝手に――邪な使い方をしただけ――ですわ。」
声が震えていた。声に出す事で初めてその罪の大きさを認識した様に
虚空を見つめた彼女は驚きを含んだ声でもう一度言った。
「邪な――使い方を――したんです。」
彼女の顔が初めて苦悶に歪んだ。
「私は邪な、邪な人間なのです。」
まるで自分に言い聞かせる様に重く同じ様な事を繰り返した。
「与えて貰った幸せすら大切に出来なかった馬鹿なのです。」
彼女の瞳の淵の粘膜が赤く染まる。
「それが例え、例え幻であっても構わない、大切にしよう、
幸せになろうと――」
――そう思っていたのに。
真っ赤な縁取りから綺麗な綺麗な雫が垂れた。
部屋の中は酷く静かで、畳に落ちた音さえ鮮明に聞こえた。
誰かが畳を踏み、立ち上がろうと力を入れたのか僅かな軋む音がした。
樋口だ。
立ち上がろうと腰を浮かせている。酷く切ない顔だ。彼女に同情したのだろう。純情な彼の事だ。自分が居てやらねばならぬとでも思ったのだろう。
手を握ってやろうとでも思ったのかも知れない。
只、その行為は野々村の言葉に阻まれた。
「茶番は良いです。耄碌(もうろく)した貴方の感傷など今は関係の無い話です。」氷雨の様に相手を選ばず切りつける様な言葉だった。
「そんな言い方は無いだろう!」
樋口は立ち上がり異議を申し立てる。
「黙っていて下さい!」
野々村はそんな彼を言葉と眼力で威圧した。
黙って睨みあう二人。
仲裁する為に腰を上げようとした瞬間、
野々村が思わぬ言葉を彼に掛けた。
「彼女にとって何が一番辛いのか、貴方は――
まだお分かりにならないのですか?」
樋口の瞳が揺れる。
「貴方には彼女の首に絡まるあの紐が見えないのですか?」
野々村の瞳は痛みでも孕んでいるかの様に細められた。
「優しさでは解けない物も在るんです。警察である貴方が
一番ご存知でしょうに――」
野々村は巧妙だった。
樋口の関与を規制しながら、志津子さんの心までも攻撃し、労わり、
揺さぶる様な言葉を敢えて選んでいるのを感じた。
実に洗脳的だ。
その巧みさに撒かれ、説得され、樋口は再び席に座ってしまった。
年下に諭された事にきまり悪さを感じたのか、樋口は一瞬、視線を部屋から庭に反らした。その一瞬反らした間に野々村は口角を上げ、口元だけで哂った。
視線が樋口から志津子さんに戻される。
「さて、本題に戻りましょう」
先程の彼の言葉が効いていたのだろう、彼女は野々村の言葉に、
まるで神からの断罪を待つ様に瞳を閉じた。
痛い程の沈黙だ。野々村は何も云わなかった。
志津子さんは瞳を開けた。
まるで瞳で会話をする様に見詰め合う二人。
「人から裁かれるまで待つ程、貴方は無責任では無いでしょう?」
言葉で追い詰める野々村。覚悟が決まったのか志津子さんは
大きく深呼吸をして云った。
「何処からお話すれば良いのか――先程貴方の云った私の〝無関係な感傷〟も抜けませんし――」
嗚呼、この為に野々村はあんな事を云ったのか。
人は、特に後ろめたさを背中に隠す人間は執拗に聞かれると隠したがる、
脅されると逃げたくなる。追い詰められると欺きたくなる。
しかし抑圧されると言いたくなる。
そして完全に否定されると否定を無効化する為に自分を深く知って欲しくなる。
彼女は自ら話すだろう。己の弱さも、強さも飾る事無い姿を。
嘘や誤魔化しが通じないであろうと判断する相手に自分と云うものを知って貰う為に。
言葉の鎖だ。まるで呪いだ。
私が不良研究者になったのもこう云う事に抵抗があったからだ。
心理だの脳だのの研究を進めれば進める程、こういった手法を知る羽目になるし必要に迫られ使わざる負えなくなる。
そもそもそう云った知識は戦争における人心掌握の為に研究されたのだから
仕方が無いと云えば仕方の無い話だが、知れば知る程、人を人とは見難くなり、言葉を発する事に罪悪感を覚える様な知識だった。
人は人を言葉で用意に縛り、動かす事が出来るのだ。
そしてそれはやってはいけない事なのだ。
泥棒行為となんら代わりの無い行為なのだ。
人の意思を奪うのだから。
人の自由を奪うのだから。
そしてその人自身の人格を見失わせるには十分な行為なのだから。
何故一介の学生である野々村がこんな話し方をするのかは判らないが
その口調に対して酷く嫌悪感が胸にくすぶった。
「付かぬ事をお伺いします、あの木の毒性はどう云った経緯でお知りになりましたか?」
「土間の窓に白い液が付いておりました。すぐ傍に植えて在る木が風か何かで折れたようで――ソレを見て遙は慌てて雑巾か何かでそれを拭きましたの。とても慌てて。聞けばその液には強い毒が在るとか。」
「ご存知無かったのですか?」
「存じませんでした。あれは遙が須藤さんに頼んで植えて貰ったらしいのです。桃色の華を好む私が喜ぶだろうと――思ったらしいので。」
志津子さんはそう云って苦笑した。
「――実際は違った。」
「ええ、違いましたわ。桃色など好んでは無かった。嫌いだから目が離せなかった。それだけでした。私にとって桃色は在る人の象徴でした。」
「遙さんの、本当のお母さん――。」
志津子さんは野々村の顔を驚いた様に見て、再び目をそらし、話を続けた。
「そうです。遙の実のお母様にしてあの人の奥様の――象徴でした。」
「何時頃お知りになったのですか?」
「何時頃でしょうか―― 子供で、無性だった遙に仄かに女らしさが色付いてきた辺りでしょうか、振り返る仕草に、佇まいに、いつか見た記憶が重なり、私は確信致しました。覚めたくない夢から覚めてしまった想いでした。何処かでずっとその可能性を感じては気づかない振りをしていました。でも――」
「自分を騙せなくなった。」
「そうです!」
吐き捨てる様な言葉だった。怒りなのか、嘆きなのか、
感情の混濁した悲鳴の様な声だった。
「愛したかった。私の子であると思いたかった。ましてやあの忌々しい人の子で在るなんて――」
「だから傷つけたのですか?」
「あの子の持つ夜の徘徊癖に困り果てていました。夜も眠れず、神経を張って、疲れていたのです。あの人が気の薬だと持ってきてくれた薬に睡眠薬でも入っているのか、薬を飲んだ後のあの子の意識は朦朧として何も覚えては居ない状態でした。だから余計に――傷つけやすい状況でした。」
「稚拙な言い訳ですね。」
「本当に愚かな人間だと思います――」
「卑下すれば、自分を責めれば許されると思ってらっしゃる。」
「違いますッ!」
野々村は酷く冷たい目で彼女を見下す様に見て――哂った。
ずっと押し黙って話を聞いていた須藤さんが頭を抱え、
何かぶつぶつと唱えた。
「ご自分の自尊心の為なら憤れる訳ですね。実に利己的な方だ。」
「何が仰りたいのです?」
「いえいえ、女に良く在る種類の人だと云ったまでですよ。」
「今更貴方に責められる様な――」
「僕の言葉は貴方の何処かに眠る良心の声ですよ。」
野々村ははっきりと提示する様な大きく張りのある声でそう云った。
志津子さんは暫く眉間に皺を寄せて憤りを表していたが、
何処かで納得したのだろう。
「そうだと――思います」と消え入りそうな声で云った。
「続きを――」
野々村にそう促されて彼女は再び口を開く。
【続く】
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