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【廿参話】
「周囲に気が付かれない様に、虐待を繰り返しました。初めの内は遙を通してあの人の奥様に一矢報いている気がして胸が空いておりました、でも遙の様子が日を追う毎にどんどんおかしくなってきて――どんなに痛めつけても笑うんです。気が触れた様に笑うんです。私を愚かだと馬鹿にする様に。腹が立って更に痛めつけるんです。更に笑うんです。そんな事をしている私なのに遙は――遙は――」
「此処まで話して自分でも何か気が付きませんか?」
「は?」
「ご自分の罪悪感から被害妄想に溺れ行くご自分の姿が見えませんか?」
「―――え?」
「薬を飲ませると遙さんの意識は朦朧とするのですよね?痛めつけて笑うのは本当に彼女の意思でしょうか?薬を疑われた事は一度も無いのですか?」
「――あの人が、あの人が下さった物ですもの。」
「貴方の大切な人は立派な人ですね。ご自分の娘に薬物を盛らせるとは。」
場がざわつく。遙さんだけが達観した様な顔で真っ直ぐ母親を見ている。
「――まだ鑑識に掛けてない。」
樋口は野々村に苦言する。
「いや、掛けずとも推して知るべしですよ。これは特別な朝顔です。」
野々村はポケットから薬包みを出すと顔の横でそれを揺すった。さらさらと粉の音がした。
「恐らくこれを処方した人間を捕まえる事は出来ませんよ。使い方さえ誤らなければこれは只の麻酔ですから。包み毎の量も知れている。夜の徘徊を止める為、とか何とか正当な理由がありますよ、きっと。」
外の連中に指示を出し、その父親を調べさせようと思っていたのか少し腰を上げていた樋口が筋肉を弛緩させる様に座った。
「貴方は根本的に間違いを犯している。一度貴方自身の身に起きた事を続けて話して見て下さい。」
彼女は惚けて視点の定まらなくなっていた目に少し生気を宿して話しだした。もう迷いは無かった。否定されるのを覚悟で身の上を話す事は容易ではない。それでも話す気になったのだろう。
少しばかり彼女が自分と向き合う勇気を出し始めたのだと私は思った。
「私は貧しい孤児でした。食うや食わずの毎日で家も無く、いつも道端で寝ていた。盗みで食いつなぐ毎日、外を歩けば盗人だ、と殴られる。いつも橋の下で息を殺す様に生きておりました。
そこに声を掛けてきたのが氷川だった。私は選択の余地など見当たらなかった。どんな仕事でも出来ると思った――でも予想を遥か上回って、私の見た現実は退廃していた。
あちこちで頭を下げては罵られ、仕事を貰っては妬まれ、光を浴びては中傷され、人気が出るや否や「今までの売り出し代だ」と強制された売春活動。抵抗して薬漬け。
橋の下の生活と何も変わらない。真っ暗闇な世界だった。生きる事が拷問だった。それでも生きていれば何か良い事があると肩を叩き、誓い合ったのが――。」
「岡田さんと嘉島さんだったんですね」
志津子さんは静かに頷いて深呼吸をすると憑き物が落ちた様な
安らかな顔をして
「少し、昔話をさせて頂きます」――そう、切り出した。
***
彼女達がどんな人達だったか何て正直覚えて居ないのです。
只、共に、同じ境遇で生きて居る人が居ると思うだけで
少し、頑張れる気がしていたし、事実今まで生きて来れた。
そして少しでも自分達の世界を生きて行きやすくする為に頑張って売れたのよ。そして発言権を持った。薬から脱却する契機を得た。
そしてその後すぐにあの人と出遭いました。とある財閥の息子さんだと氷川から紹介された。
最初は金で女遊びがしたいだけの人だと軽蔑していた。
でも彼はいつも私を呼んでは何をするでも無く、
私の分からない様な難しい話をしていた。私は只、頷いて聞いてた。
そして突然身請けを申し立てられたの。あの時は、本当に嬉しかった。
彼は私にに家を与え、金を与え、住まわせながら一向に手も出さず、
只、気が向いては家を訪ね一時間や二時間話をして行くだけだった。
ずっと体や金目当ての男ばかり見ていた私は初めて恋に落ちました。
それは信頼と恋慕を履き違えていただけかも知れない。
でも体液と欲と闇に紛れて生きざるおえなかった私にとってゆっくりお茶を飲みながらじっくり目を見て話をしてくれる彼に――
何も求めずに只、傍に居てくれる彼に溺れてしまうのは余りにも簡単な話でした。
熱に浮かされた様に彼の事ばかり考えた。彼は自分の事は何も言わなかった。知りたくて知りたくて問うのだが帰ってくる答えは幸せな家庭、愛する妻、子供の話ばかり。
恋しくて、恋しくて恨めしくて堪らなかった。
起きても寝ても想うはあの人の事ばかり。
来訪が無い日は世界の破滅さえ願う程でした。
地獄から救い上げてくれたのが誰なのかなど忘れて彼の幸せが破綻する事を願った。自分の居場所が彼の中に出来る事を祈った。
祈って、祈って、叶わないから行動する事にした。祈りなど届かぬ!待ってなどおれぬ。欲しい彼なら奪えばいい。何としてでも。
体と言葉一つで金持ちの男達を翻弄してきた私ではないか。今更出来ぬ事など何もない――と。
彼の後を付ける。大きな門構えのお屋敷だった。
綺麗な模様に削られた塀の隙間から見えた景色は
一面に桃の花が咲いていました。
池が在るのだろうか、その橋の上で彼の後ろを
静々歩く桃花の精の様な女性が居た。
彼女は華の様に笑った。白い着物に桃の色が移る。
広い広い屋敷の広い庭なのに彼女の声がよく聞こえました。
「貴方、私、、また命を授かりました」
あでやかに彼は微笑み、彼女の腹を優しく撫ぜた。
塀で隔たれたその場所には欲しいもの全てが在った。
彼が居る、美貌がある、平穏がある、家柄が在る。
何より忌々しい程の幸せがここに在る。
彼女がとって変われたら。
せめて桃の精の――あの穢れの無い笑顔を汚せたら。
家までの記憶など無かった。
心の中は虚空で不安が増しただけだった。
虚空を孕んだ心は何か詰め物を求めた。
あいにく、私に出せたのはどろりと濁った想いだけだった。虚空に怯える心はソレを目一杯吸いこんだ。
満たされる心、煌々と燃え盛る嫉妬、渇望。
今思えば、私はその時から鬼になって居たのでしょう。私こそが悪鬼でした。
何日後だったか、
いつもの様にふらりと訪れる彼にとうとう孤独が溢れ出した。
「後生です、抱いて下さい。」
いつもの様に向かいあって座ってた私が急に彼の横に行きスルスルと肌を肌蹴ていった事にさぞかし驚いたのでしょう。
それでもしばらく時の止まっていた彼は優しげに笑い
「女性がそんな事を軽々しく言うものじゃない」と嗜めた。
「軽々しく何て御座いません。七転八倒ねじ切れる想いです。お慕い申しております。私を、貴方のものにして下さい」
そしてはしたなくも彼の体を押し倒した。
彼は特に抵抗もせず、易々と天井を仰ぎ見た。
私はまるで活劇か何かを見ている様に
ゆらりゆらりと景色の焦点が揺らいでいるのを感じていた。
思いの丈を込めて成立させた行為はとても一方的で
虚しさに気が付かぬよう、肌の温もりに溺れた。
現実逃避とは云えその時、私は幸せでした。
彼は何一つ愛の言葉を吐いてはくれませんでしたが
何度も何度も頬を撫ぜてくださいました。
その時、私は子供を授かりました。
医者にそう告げられた時は野を掛け、天をも駆ける想いでした。
あの方の面影を頂ける。愛しい命を頂ける。
産んだら少しは通う時間を増やして下さるだろうか。
例え彼から疎まれてしまったとして――
可愛がろう。うんと叱ってやろう。
うんと抱きしめてやろう。嫌がって耳を塞がれてしまっても
「お前は母の宝物だ」と云ってやるのだ、そんな事を思った。
私はやっと孤独から這い出るチャンスを得た。
絶対的な孤独からやっと出れたのだ。
訪れた彼にもそう話した。隠しもせず私は喜んだ。
彼は優しく微笑み「喜んでくれてとても嬉しい」と
「体を慈しんでくれ。滋養をつけてくれ」と珍しいお菓子を送って下さった。
あの時が人生で一番幸せだったのかも知れない。
【続く】