音楽の時田先生は、クラスの皆から舐められていた。
可憐なソプラノの声は威厳がなく、授業も退屈な部類に入るようなものだった。
だからといって授業中騒ぐのもどうかと思うが、そのあたりの区別もまだ中一にはつかないようだ。
(それにしても。)
「来週カラオケ行かね?」
「あり。ってかさ、こんな合唱練するくらいなら、Third−Placeの曲歌いたいわ〜。」
「ねえ、ちょっと静かにしようよ……。」
「うるせえ田島!お前注意できる立場じゃねえだろ!」
「田島、お願いだから黙ってて。田島が喋ると周りの反感買うの分かってるよな。」
(今日は一段と騒がしいな。)
もう授業が始まって15分、皆の喋り声が途絶えない。
「ちょっと!静かにしなさい!」
時田先生が声を荒げると、皆は喋るのをやめた。
その興奮具合にそろそろヤバいかと視線を泳がすと、ソプラノのパートリーダーの麻里と目があった。
目で会話していると、視界の端に夕弦が或真に浣腸をするのが見えた。
「おぉい!やめろって!」
その途端、静かになりかかっていた空気にヒビが入った。
皆がわっと笑いだすのと同時に、先生は諦めたように僕達に背を向けた。
「もう良いです。喋りたいならずっと喋っていてどうぞ。」
荷物をまとめだす時田先生に、或真が慌てたように弁明をする。
惨めな或真の姿を見て笑う皆に、麻里が笑うところじゃないと一喝する。
そんな光景にほとほと呆れながら、この委ねの時間を耐えた。
僕は先生が出ていくこの時間を、”委ね”と呼んでいる。
小三の時、一度ALTの先生が出ていったことがあった。
この文化って外国でもあるものなんだ、なんて思ったことを覚えている。
逆に言えば、前のことすぎてそれ以外は覚えていない。
この話を母さんにすると、大口を開けて笑いながら、僕にこう話した。
「懐かしいな、私達もそんなことあった。生徒たちに行動を委ねるから、友達と”委ね”って呼んでたんだよね。高校の時の美術が山川先生って人だったんだけど、この先生がめっちゃ委ねを使う先生でさ。」
その影響で、僕も委ねと呼ぶようになった。
ただ、僕のこれには、皮肉も混じっている。
麻里と目で合図し、或真と共に出ていった時田先生を追いかけた。
僕と同じく学級委員の黒川さんや実行委員の東雲と植草、それに有志の子たちも一緒に着いてきた。
階段に二人の姿を見つけると、或真が泣いていることに気がついた。
(あいつ、説教されるの慣れてるだろうに。)
「赤間さん、私は貴方を怒っているわけじゃないんです。貴方にちょっかいかけた友達がいたの、見ていました。私は、どちらかといえばその人達に改心してほしいと思っています。だってほら、今もまだ音楽室うるさいでしょう。それが証拠です。」
麻里が音楽室の方へと踵を返した。
この一連の流れを思い返すと、やはりこの時間は委ねと呼ぶのに皮肉込みで相応しい。
説得がうまくいかなかったのか、麻里がものすごい音を立てて扉を閉めた。
(そういえば、来てるの東雲以外女子だな。)
『ちょっと男子、真面目に歌って』という台詞があるあるになるように、こういう時にまとめようとするのは女子が多いらしい。
やっぱり自分では気づかないうちに”女子”が染み込んでしまったようだ。
……なんて、こんな些細なことでさえ、最近は気になってしまう。
僕らトランスジェンダーは、他の人とのズレに人一倍敏感な人が多い。
そんな事を考えていると、いつの間にか説教が終わっていたらしい。
「さて、来てくれたってことは、何か言いたいことがあるんでしょう。」
誰も何も言い出さないので、小さく溜息をついてから口を開いた。
「授業中騒がしくしてしまいすみませんでした。僕達は音楽祭で親とかに頑張っている姿を見せたいし、そのために練習したいと思っています。なので、よければもう一度、授業をしてくれませんか。」
どこかで聞いたことがあるような文言をそのまま口から出すと、先生は満足げに頷いた。
(やっぱり、委ねって完全には委ねてないんだ。ある程度の定型にあわせた、自己満のごっこ遊びなんだよ。)
そんなことを口に出すには、もう優等生になりすぎた自分。
たまに或真のような奴が羨ましくなるのは、何故だろうか。
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