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社員食堂で「佐川さなは誰とでも寝るから止めておけ」と忠告されたその夜、俺はその言葉を掻き消すように佐川さんを抱いた。
「あ……奈良くん」
「なに」
「どうしたの?いつもと……違う?」
俺はその問いに答えなかった。
(誰とでも寝る? 俺じゃなくても良かったのか?)
これは嫉妬か、虚しさか。
誰でも良いのか。
中途半端な恋なら、この身体は誰でも受け入れるのか。「あ……」もう俺の心に、満島瑠璃の面影は残っていなかった。
佐川さなをもっと知りたい。
独り占めしたい。
それしかなかった。
これはもう、浮気でも二股でもない。
俺の中で、瑠璃との恋は終わっていた。
俺の肩に佐川さんの足が絡みつく。
「さ、が……」
「あ!」
腰が痙攣し、息が止まる。
時計の秒針の音だけが、寝室に規則正しく響いていた。
やがて熱が緩やかに引いていく。
俺は腕の中、肩で息をする佐川さんを強く抱きしめた。
誰にも渡したくない。
こんな感情を、瑠璃に抱いたことは一度もなかった。
「奈良くん、明日も仕事だよ……」
「……」
「どうしたの? 何かあった?」
おもむろにシーリングライトのリモコンを握る。
ぱっと部屋が明るくなると、佐川さんは「キャッ」と小さく声を上げ、ブランケットで胸を隠した。
「やだ、急に……」
俺はベッドサイドの黒い細長い小箱を開け、中から艶消しの黒い筒を取り出した。
「……口紅?」
「うん。佐川さん、いつも口紅つけてないから」
彼女に手渡すと、佐川さんは宝物でも扱うようにそっと蓋を外し、くるりと回した。
黄色みがかったベージュに、落ち着いたオレンジを足したような色味だった。
「これなら目立たないよ」
「なんのプレゼント?」
「俺に塗らさせて」
佐川さんは目を閉じた。
いつもスクエアの眼鏡で隠されている、少し垂れた下がり眉と二重の瞼。
俺は口紅の芯を少しだけ出し、その緩やかなカーブをぽってりとした唇にゆっくりと這わせた。
想像通りだった。
口紅を塗っているのかいないのか、一目では分からない。
俺だけが知っている《佐川さな》だ。
「佐川さん、好きだ」
黒い肩までのボブヘアーを手櫛で優しく撫でた。
「瑠璃さんは……良いの?」
「別れる」
「私、4歳も年上よ?」
「知ってる」
「9月で30歳よ」
「うん」
「結婚してって言うかもしれないわよ?」
「それでも良い」
「まだ知り合って半年よ」
俺は思い切り彼女を抱き締めた。
それが恋なのか、ただの独占欲なのかは分からなかった。
ただ、心の中は佐川さんで埋め尽くされていた。
瑠璃に別れ話をしなければ。
土曜日、金沢に行こう。
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