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そんなある日。
「……康二」
呼ばれて、向井が顔を上げる。どこか緊張した面持ちの深澤が立っていた。
「今日、時間ある?飲み行こ?」
一瞬の間。
向井はいつもの調子で笑おうとして、やめた。
「……ええんすか?」
「あ?別に。最近、元気ねぇし」
深澤はそう言って、照れ隠しのように頭をかいた。
小さな居酒屋。
仕事終わりの時間帯を過ぎて、店内はほどよく騒がしい。
「はい、おつかれ」
深澤がグラスを差し出すと、向井はそれを受け取って軽く鳴らした。
「お疲れさまです」
一口飲んで、向井はふぅっと息を吐く。肩の力が、少しだけ抜けたように見えた。
「で?阿部ちゃんと何かあったの?」
その質問には答えず向井は話し始めた。
「……俺、好きな人、おるんです」
深澤は箸を止めたが、すぐに何でもないふうを装った。
「へぇ!」
「でも、近づかれへん」
向井はグラスを指先で転がす。
氷が、からんと音を立てた。
「近づこうとしたら、なんでか……距離、できてもうて」
深澤の胸が、わずかにざわつく。
(……え?康二って?)
でも向井は、名前を出さない。
「相手は悪くないんです。むしろ、めっちゃ優しい人で」
その言葉が、深澤の胸に静かに落ちた。
「優しいから、余計に」
向井は視線を伏せる。
「俺みたいなんが踏み込んだら、あかん気がして」
深澤は、無意識にグラスを強く握っていた。
(……それ、誰のこと言ってる?)
「その人、好きなもんは好き、欲しいもんは欲しいって言うのに、優しいからか肝心なとこで臆病っていうか…」
深澤の脳裏に、なぜか阿部が一瞬よぎる。
向井はつづける。
「せやから俺が引いたらその人、たぶん何も言わへん」
沈黙。
深澤は、耐えきれずに口を開いた。
「……それでいいのかよ」
向井は少し驚いた顔をしてから、困ったように笑った。
「良くないっすよ……でも」
グラスを持つ手が、ほんの少し震えた。
「俺が近づいたら、誰かが傷つく気がして」
その“誰か”が誰なのか。
向井は、最後まで言わなかった。
深澤は、胸の奥が妙に熱くなるのを感じながら、自分でも驚くほど低い声で言った。
「……近づかなきゃ、始まんねぇだろ」
向井は、その言葉を聞いて一瞬だけ固まった。
そして、ゆっくりと微笑む。
「……ふっかさん、やっぱ優しいですね」
その笑顔に、
深澤はなぜか胸を締めつけられた。