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その個体との生活が三ヶ月を数える頃、中也はふと思い立ったように、彼女を外の世界へと連れ出すことにした。度重なる産卵によって、太宰の心身には微かな翳りが差し始めていた。管理官としての経験則から、適度な気晴らしは個体の生存期間を延ばし、結果として収穫物の質を向上させることを彼は知っていたのである。
「……お外? 本当に、中也とお外に行けるの?」
太宰は、弾むような声で中也に問いかけた。中也は無言で頷き、彼女の細い肢体に、特製の外出着を着せさせた。それは、彼女が「産卵個体」であることを隠すための、ゆったりとした仕立ての美しい衣類であった。中也は、彼女の首元に、組織の所有物であることを示す刻印を隠すように、柔らかな布を巻いてやった。
横浜の街は、昼下がりの陽光に包まれ、活気に満ちていた。潮風の香りと、行き交う人々の喧騒。白い部屋しか知らぬ太宰にとって、そのすべてが宝石のように眩い刺激であった。彼女は中也の腕をがっしりと掴み、子供のように周囲を見渡しては、感嘆の声を上げた。中也は、その隣で、常に周囲を警戒しながらも、時折見せる彼女の無邪気な笑顔に、形容しがたい静かな充足を覚えていた。
「中也、見て! あんなに高い建物がある。……あ、あのお花、とってもいい匂いがするね」
太宰は、道端に咲く名もなき花にさえ、至福の悦びを見出していた。中也は彼女を連れ、港の見える公園を歩き、やがて彼女の望むままに、市街地で最も名高い百貨店へと足を踏み入れた。中也の目的は、彼女に好きな菓子でも買い与え、その信頼をより強固なものにすることであった。
だが、運命は、残酷な悪戯を用意していた。
「……あ、……中也、見て。あそこに、……とっても綺麗なものがあるよ」
太宰が指差した先は、地下にある高級食料品売り場の一角であった。中也が止める間もなく、彼女はその輝くような照明に誘われ、吸い寄せられるように歩み寄ってしまった。
そこには、金色のクッションに鎮座し、一玉ずつ丁寧に桐箱に収められた、真珠色の巨大な卵が並んでいた。
『横浜の至宝・特級生命卵。一玉、五十万円』
添えられた説明書きには、産卵個体の徹底した健康管理と、その濃厚な黄身がいかに滋養強壮に優れているかが、誇らしげに記されている。そしてその横には、無慈悲な一枚の写真があった。卵が半分に割られ、とろりと溢れ出した黄金色の液体を、銀のスプーンですくい上げ、今まさに口に運ぼうとしている、幸福そうな人間の姿。
太宰の動きが、凍りついたように止まった。 彼女の瞳が、一点に釘付けになる。その卵の形、色、大きさ。それは、彼女が自らの腹を痛めて産み落とし、中也が「安全な場所で温めている」と言い張っていた、あの愛おしい我が子そのものであった。
「……あ、……。……これ、……わたしの、……わたしの……赤ちゃん……」
太宰の声から、温度が消えた。 彼女は震える指先で、ショーケースの冷たい硝子に触れた。硝子の向こうで、自分に似た色彩を放つ命の欠片が、単なる「高級食材」として、値札を付けられ、消費されるのを待っている。
「……太宰、帰るぞ。……ここは、お前が来る場所じゃない」
中也は、彼女の肩を強く掴み、引き寄せようとした。だが、太宰の身体は根を張ったように動かない。彼女の瞳には、これまで中也が積み上げてきた「優しい嘘」が、粉々に砕け散っていく絶望が映り込んでいた。
「……中也。……孵化器に、入れたって言ったよね……? ……温めて、あげてるって言ったよね……?」
太宰が中也を見上げた。その瞳には、かつての信頼は欠片も残っておらず、ただ深い淵のような不信と、焼き付くような絶叫が渦巻いていた。
「……割られてる。……食べられちゃうんだ。……中也、……笑いながら、……あんな人たちに、売ってたんだ……っ!」
「……太宰、落ち着け。……これは、組織の決定だ。お前にはどうすることも――」
「うそつき!!!」
太宰の絶叫が、静かな高級売り場に響き渡った。周囲の客が、何事かとこちらを振り返る。太宰は狂ったように自分の腹を叩き、中也の胸を拳で突いた。
「やだ、……やだぁぁぁ!! 食べないで! わたしの赤ちゃん、食べないで!! 中也、……中也、……ひどいよぉ、……信じてたのに、……大好きだったのに……っ!!」
太宰は床に泣き崩れ、喉が張り裂けんばかりの声で泣き叫んだ。自分の愛した「パパ」代わりの守護者が、実は自分の子供を売り捌く人買いであり、屠殺者であったという真実。彼女の純粋な心は、その矛盾に耐えきれず、瞬く間に崩壊の兆しを見せ始めた。
中也は、周囲の視線を一瞥し、無言で太宰を抱き上げた。暴れる彼女を強引に制圧し、逃げるように百貨店を後にする。車の中に彼女を押し込んでも、太宰の慟哭は止まることを知らなかった。彼女は窓硝子に頭を打ち付け、自分の爪で自分の腕を掻き毟り、鮮血を散らしながら叫び続けた。
「……返して! ……一回だけでいい、抱かせてよ! ……わたしの赤ちゃん、……あんなふうに、……殺さないで、……食べないでぇぇ!!」
中也はハンドルを握る手に力を込め、前を見据えたまま、一言も発しなかった。 彼の脳裏には、先代たちが辿った同じ絶望の軌跡が、走馬灯のように駆け巡っていた。どんなに優しく世話をしても、どんなに甘い言葉をかけても、真実が暴かれる瞬間は必ず訪れる。そして、その瞬間から、家畜としての「太宰」は、真の意味で壊れ始めるのだ。
「……あぁ、そうだ。……あれは、全部売った。……それが、お前の存在理由だからな」
中也の声は、もはや一切の感情を排していた。 太宰は、その氷のような言葉を聞き、ひきつけを起こしたように身体を強張らせた。 それから、彼女は力なく笑い始めた。
「……あは、……あははは。……そうだよね。……中也は、……わたしの味方じゃなかったんだ。……中也も、……わたしのこと、……いつか食べるんだよね……?」
太宰は、涙でぐしょぐしょの顔で、中也の横顔をじっと見つめた。その瞳に宿っているのは、もはや正常な人間の感情ではなかった。絶望と、裏切りと、そしてそれらをすべて飲み込んだ果てにある、暗い、暗い「依存」の狂気。
中也は答えなかった。 車は再び、窓のない白い檻へと向かって走り続ける。 潮風の匂いは消え、車内には、太宰の流す血と涙の、生臭い匂いだけが充満していた。 優しい嘘は死に、そこには、管理者と家畜という、剥き出しの真実だけが残された。
(続く)
次回、第七話。子供を守ろうとする太宰の最後の抵抗と、地面に散らばる未完成の生命。絶望の極致を描く物語へと続きます。
(なんで一言コメント後ろに書いてるのかって?ははは、こっちの方が書いてる身としては楽だからだよ( ̄▽ ̄))
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