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微グロ注意。
あの日、街の喧騒の中で真実の断片に触れて以来、太宰の精神は奇妙な静寂に包まれていた。中也が部屋を訪れても、以前のように子犬のように駆け寄ることはない。ただ、虚ろな瞳で壁の一点を見つめ、琥珀色の液を胎内に流し込まれる間も、人形のようにされるがままになっていた。中也はそれを、絶望による沈黙だと判断し、むしろ管理が容易になったとさえ感じていた。だが、それは大きな誤算であった。
太宰は、学んでいたのである。この白い檻の中で、どうすれば「自分の子供」を守れるのかを。
中也が事務作業のために部屋を離れる、わずか十五分の空白。太宰はその隙を突き、産卵直後の、まだ体温を宿したままの卵を一玉だけ、監視カメラの死角を突いて回収した。本来ならば即座に中也の回収箱に収まるはずの「商品」を、彼女は震える手で、自分の寝台の奥深く、何枚も重ねた羽毛布団の芯へと隠したのである。
(大丈夫。ここなら、中也にも見つからない。わたしが、温めてあげるから)
その日から、太宰の奇妙な二重生活が始まった。
中也の前では、相変わらず「産み終えた抜け殻」を演じ、残りの四玉を淡々と差し出す。だが、中也が去った後の暗い布団の中で、彼女はたった一玉の卵を、自身の裸の肌に直接触れるようにして抱きしめた。
卵は、生きている。布団の中の狭い空間で、太宰が耳を澄ませると、殻の向こうから、微かな、だが確かな鼓動が聞こえてくるような気がした。それは中也が流し込む無機質な薬液の音ではなく、彼女自身の血を分け与えた、真実の命の音であった。
「……おはよう。今日は、昨日より少し重くなったね。……頑張ろうね。早く、お外に出ようね。お母さんと、一緒にいようね」
太宰は、暗闇の中で卵に囁きかける。罪悪感はあった。自分を生み、育ててくれた唯一の神である中也を騙していること、彼に捧げるべき「商品」を盗んでいること。もし見つかれば、どんな罰を受けるか分からない。けれど、それ以上に「この子を、あの冷たい棚へは行かせない」という、盲目的で狂気じみた母性が、彼女の理性を焼き切っていた。
一週間が過ぎた頃、卵の中の生命は、驚異的な速度で形を成し始めていた。次世代個体としての遺伝子が、太宰の体温を糧に、殻の内部で急速な組織形成を行っているのである。布団を捲れば、卵は微かに自ら発熱し、時折、内側から殻を叩くような振動さえ見せるようになった。
(もうすぐだ。もうすぐ、この子はわたしの腕の中で、目を開けてくれる。中也じゃない、わたしだけの……)
太宰は悦びに震えた。だが、その悦びは、冷酷な金属音によって打ち砕かれた。
「……おい、太宰。何してやがる」
聞き慣れた、低い声。中也が、予定よりも早く部屋に戻っていた。
太宰は心臓が止まるかと思った。咄嗟に布団を被り、隠した卵を必死に体で覆い隠す。
「……な、なにって……。寝てるだけだよ、中也。……疲れちゃったから、そっとしておいてよ」
「……寝てる? お前が、俺が入ってきたのに一度も顔を上げねぇで、そんなに肩を震わせてか。……どけ」
中也の足音が近づく。太宰は布団の端をぎゅっと握りしめ、必死に首を振った。
「やだ! 来ないで! ……なんでもないの、本当になんでもないんだってば!」
中也の瞳が、冷徹な管理官のそれに変わる。彼は迷いなく太宰の腕を掴み、強引に引き剥がした。羽毛布団が無造作に捲り上げられ、その中心に隠されていた「禁忌」が、白日の下に晒される。
太宰の肌に密着し、彼女の汗と体温でしっとりと濡れた、真珠色の巨大な卵。
それは、出荷名簿から消えていた「欠損分」であった。
「……これを、隠してやがったのか。……孵化器も通さず、こんな不衛生な場所で。……お前、自分が何をしたか分かってんのか。これは組織の、俺の管理物だ」
中也の声は、怒りよりも深い、呆れと冷酷さに満ちていた。彼は迷わず手を伸ばし、太宰が命よりも大切に抱えていた卵を掴み取ろうとした。
「やだ! やめて中也!! わたしの赤ちゃん! 返して!!」
太宰は狂ったように叫び、中也の腕に噛み付かんばかりの勢いで飛びかかった。
「放せ! これは商品だっつってんだろ! 適切に処理しなきゃ、腐るか奇形になるだけだ!」
「死んでも渡さない!! この子はわたしの、わたしたちの子なんだよ!!」
二人の間で、一玉の卵が激しく奪い合われる。太宰の指が、中也の手首が、そしてその間に挟まれた脆弱な殻が、限界を超えた圧力に悲鳴を上げた。
――パキリ。
その音は、あまりにも小さく、そして決定的であった。
太宰が息を呑む暇もなかった。彼女の指先に伝わっていた確かな重みと熱が、一瞬で「崩壊」の感触へと変わった。
中也の手から滑り落ちた卵は、床の冷たいタイルに叩きつけられ、粉々に砕け散った。
「……あ」
太宰の喉から、声にならない音が漏れた。
砕けた殻の中から溢れ出したのは、あの店で見たような綺麗な黄身ではなかった。そこにあったのは、既に「形」を成し始めていた、おぞましくも愛おしい、未完成の生命の成れの果てであった。
透明な粘液の中に、小さな、だがはっきりと分かる頭部の隆起。未発達の四肢の芽。そして、まだ羽毛さえ生え揃わぬ、太宰の髪と同じ色をした産毛が、真っ赤な血の筋と共に床に広がっていく。
数秒前まで、太宰の布団の中で確かに脈打っていたはずの心臓。それが、今は床の上で、ただの生々しい肉の塊として、ぴくぴくと最後の痙攣を見せていた。
「……ぁ、……ぁああ……」
太宰は膝から崩れ落ち、その「惨劇」を素手で掬い上げようとした。
「あ、赤ちゃん……。……ごめんね、……痛いよね。……中也、……助けて、……この子、まだ生きてる……! 繋いでよ、……中也、……お願い……!!」
太宰の手は、赤ん坊になりかけていた粘液と血で真っ赤に染まった。彼女は床を這い、バラバラになった「我が子」の破片を集めようとする。だが、一度割れた命は、二度と元の形には戻らない。温かかった粘液は、冬の空気にあてられ、急速に冷たくなっていく。
中也は、その光景を無言で見下ろしていた。
彼の長靴の先には、砕けた殻の破片と、太宰が愛した生命の残骸がこびりついている。中也は、絶叫し、血塗れの手で自分に縋り付く太宰を、冷めた瞳で見つめ返した。
「……だから言っただろ。……お前が抱えていられるようなもんじゃねぇんだよ」
中也は冷たく言い放つと、動かなくなった肉の塊を、掃除用の布で無造作に拭い去ろうとした。
「やめて!! 触らないで!!」
太宰は中也を突き飛ばし、血溜まりの中に顔を埋めた。自分の産んだ「命」が、塵芥のように処理されることに耐えられなかった。
彼女は、床に残った生臭い匂いを、狂ったように吸い込んだ。
これが、自分が守ろうとしたものの末路。
自分が愛し、信じた守護者が、一瞬で踏み潰した、自分のすべて。
「……あは、……あははは。……死んじゃった。……わたしが、殺しちゃったんだ……」
太宰の瞳から、最後の光が消えた。
彼女は自分の赤い手を見つめ、それから中原を見上げた。その瞳に宿っているのは、もはや知性でも絶望でもない。ただの、壊れた家畜の無垢な狂気であった。
中也は、床に散らばった「かつての命」を部下に片付けさせるよう指示を出し、太宰を処置台へと横たえた。彼女はもう、抵抗しない。自分の子供が目の前で挽肉のように成り果てた恐怖を、彼女の脳は「無かったこと」にするために、より深い依存の闇へと逃げ込んだのである。
中也は、太宰の空っぽな瞳の中に、自分の姿が映っているのを確認し、彼女の額に、慈しみという名の毒を含んだ口づけを落とした。
「……お疲れ様。……さあ、次の収穫の準備だ」
(続く)