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local99
#大人の恋愛
瑠璃マリコ
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ああ、ようやくここまで読んだ……今回もじわじわ来る構成でしたね。 罫紙の組み方、活字の並び方、印刷所の仕事——主人公が持っている職人的な知識が、まさか鍵を握るとは思わなかった。最後の「奥様の、お菓子」が怖すぎる。侯爵様が言った「食べるな」が最初は謎だったけど、お鈴が口にしてしまった……あれは大奥様が罠を仕掛けたのか、それとも別の誰かが。タキさんと真柴さん、どっちもまだ何か隠している感じがして、続きが気になって仕方ないです。
「その紙、どこで拾われました」
タキさんの目は、私の手元から離れなかった。
嘘をつくこともできた。けれど、この人の前で下手な嘘は通らない気がした。
「拾ったのではありません。私の鏡台の引き出しに、入っていました」
タキさんの眉が、ほんのわずかに動いた。
「……さようでございますか」
「タキさんは、これが何かご存じなのですか」
「存じません」
即答だった。
「存じませんが、奥様。そういうものは、お捨てなさいまし。持っていて良いことなど、一つもございません」
タキさんは一礼して、和館の奥へ去っていった。
足音は、やはりしなかった。
*
その日の午後、大奥様に呼ばれた。
「婚礼のお祝いをいただいた方々へ、御礼状を。百通あります」
奥座敷の大奥様は、私の顔を見ずに言った。
「久遠寺の嫁の字が、方々の目に触れるのです。見苦しいものを出したら、恥をかくのはこの家ですよ」
「かしこまりました」
「家令室で書きなさい。紙も宛名も、真柴が揃えています」
家令室までは、下働きの女中が案内してくれた。
お鈴という、十四になったばかりの女の子だ。頬が丸くて、よく笑う。
「奥様、こっちが近道です。台所の脇を抜けるんです」
使用人棟の廊下を進むと、醤油と出汁の匂いが漂ってきた。大台所の入口の柱に、一枚の紙が画鋲で留めてある。
「四月第二週 御献立」。月曜から日曜まで、朝昼晩の品書きが並んでいる。
足が止まった。
字の線の縁が、細かい点の集まりでできている。線の中にも、斜めに走る細かな筋。
「これ、謄写版で刷ったのね」
「はい。女中部屋に一台あるんです。献立も当番表も、毎週それで刷るんですよ」
お鈴は得意そうに言った。
ヤスリ板の目が、斜めに走っている。蝋紙を斜めの目の板に載せて、鉄筆で書いたのだ。
私はそれを、なんとなく覚えておいた。
*
家令室は、和館の玄関寄りにあった。
八畳ほどの板張りに、大きな机が一つ。壁際には帳簿の棚がびっしりと並び、隅に黒い鉄の金庫。机の端には、黒漆に金の蒔絵の文箱が置かれ、小さな錠がかかっている。
そして窓際の台に、邦文タイプライターが一台あった。
「奥様、どうぞこちらへ」
真柴さんが椅子を引いてくれた。机の上には、宛名を書き出した帳面と、罫紙の束。
「御礼状には、こちらの罫紙をお使いください」
差し出された一枚を、私は両手で受け取った。
上質の和紙に、薄墨色の罫が刷られている。上部には久遠寺家の紋。周りを囲む枠は、太い線と細い線を二本並べた子持ち罫だった。
私は思わず、紙の四隅を指でなぞっていた。
罫と罫の角の合わせ方。太い線の端を、細い線よりわずかに長く出して留める組み方。
この手つきを、私は知っている。
父が旧藩士会の会報を刷っていた頃、毎号こうして枠を組んでいた。久遠寺藩の旧藩士たちの会報だ。父はそれを、何より誇らしい仕事にしていた。
「この罫紙は、どちらで刷られたものですか」
真柴さんは眼鏡を指で押し上げた。
「出入りの印刷屋でございます。古くからのつきあいで。何か、お気に障りましたか」
「いいえ。父の組み方に似ていたものですから」
「さようでございますか。腕のいい職人は、どこか似てくるものなのでしょうな」
真柴さんは穏やかに笑い、帳面を開いた。話はそれで終わった。
似ているだけだ、と私も思った。罫の組み方など、職人の数だけあるようで、実はそう多くない。
*
礼状を十通ほど書いたところで、真柴さんが帳簿を打つために、タイプライターの前に座った。
私は筆を止めて、その手元を見ていた。
平たい皿に、何千という小さな活字が、ぎっしり並んでいる。真柴さんがレバーを動かすと、皿の上を腕が滑り、一字を拾い上げて紙に打ちつける。かしゃん、と澄んだ音がした。
「珍しゅうございますか」
「いえ。懐かしいのです」
私は立ち上がって、活字皿を覗き込んだ。
「この並び、部首ごとなのですね。人偏、言偏、それから木偏。よく使う字は手前に」
「おや」
「うちの活字棚も、似た並びでした。文選のとき、目をつぶっても手が覚えているくらいに」
真柴さんは面白そうに、私に場所を譲った。
「では、奥様。『御礼』と打ってごらんなさい」
御は彳の並び。礼は示偏。私はレバーを動かし、二字を拾って打った。
かしゃん、かしゃん。
真柴さんは、左の眉を指でゆっくりなぞった。
「これは驚きました。初めてで、こうも迷わない方は珍しい」
「字の場所がわかるだけです。意味のあることではありません」
「いいえ。奥様は、字の並びがお分かりになる」
褒められたはずなのに、なぜか背中がすっと冷えた。
私は机に戻り、また筆を取った。
「拝啓 春暖の候 このたびは私どもの婚礼に際し 過分なるお祝いを賜り」
同じ文を、宛名だけ変えて何十回も書く。分家の御当主、旧藩士会の世話役、出入りの呉服屋、植木屋、炭屋。久遠寺の家に連なる人の多さに、目が回りそうだった。
筆の運びに迷うと、つい真柴さんの手元を見てしまう。
真柴さんは帳簿を打ち終えると、懐中時計の鎖についた小さな鍵で、机の端の文箱を開けた。中から書き付けを一枚出し、何か書き込んで、またすぐに錠を下ろす。
鍵は鎖ごと、チョッキの隠しへ戻っていった。
この家の大事なものは、きっとあの文箱と金庫に眠っているのだろう。そう思っただけで、私は宛名の続きに目を落とした。
*
夕方近く、障子の外から涼やかな声がした。
「奥様。大奥様から、お茶菓子でございます」
若い女中が、漆の盆を捧げて入ってきた。
目鼻立ちのはっきりした、美しい人だった。白い前掛けまで、ほかの女中より糊が利いて見える。
盆の上には、紅で店の名を刷った掛け紙の包み。「銀座 千草堂」。中は練り切りが二つ。
「大奥様が、お嫁入りのお疲れが出ませぬようにと」
盆を支える白い指先に、目がいった。右の人差し指の爪の際に、黒いものが細くこびりついている。墨とは違う、脂っぽい黒。
私の中指の染みと、どこか似ていた。
大奥様が、私に。
今朝の様子からは、とても考えられなかった。
食べるな。侯爵様の声が、また耳の奥で鳴る。
「ありがとうございます。けれど、筆を持っておりますので、汚してはいけません。下げてくださいますか」
美しい女中の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……かしこまりました」
盆が引かれていく。真柴さんは帳簿から顔を上げず、何も言わなかった。
その日、私は百通のうち六十通を書き上げた。
「残りは明日でようございます」と真柴さんに言われて家令室を出たとき、廊下の窓の外はもう藍色だった。
*
夜更け、洋館の部屋で髪をほどいていると、和館のほうが騒がしくなった。
人を呼ぶ声。走る足音。
羽織を引っかけて渡り廊下を駆け、使用人棟へ回る。女中部屋の前に人が集まっていた。
布団の上で、お鈴が体を海老のように丸めていた。
額に脂汗。腹を両手で押さえて、声も出ないほど震えている。
タキさんがその背をさすり、ほかの女中たちが青い顔で立ち尽くしていた。
「お鈴」
私が膝をつくと、お鈴は涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。
「奥様の、お菓子……少しだけ……もったいなくて」