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第9話「震える指」
バスの車窓に、流れていく景色が映っている。
畑、住宅街、小さな駅舎……どれも通り過ぎていく。
逃げているはずなのに、世界はあまりに普通で、綺麗だった。
その普通さが、かえって恐怖だった。
電話を拒否してから、ひなたの手の震えは止まらなかった。
指先がずっと冷たくて、つかさの手を握っても、全然温かくならなかった。
「大丈夫か?」
つかさが言う。
その声も、ひなたには少し遠くに聞こえた。
「…うん。でも、さっきの番号…たぶん、母親…」
「よく拒否したな」
褒めるように言ってくれたのに、ひなたはなぜか胸が締めつけられた。
本当にこれでよかったのか。自分たちは本当に、正しい方向に逃げているのか。
「スマホ、電源切っとこうか」
「…うん」
つかさは慣れた手つきで、SIMを抜き、バッテリーを外し、もう一台の予備スマホに移し替えた。
彼女は用意周到だった。全部、自分が無知なままでいる代わりに、つかさがやってくれる。
「ごめん、何もできなくて」
つぶやくと、つかさがピシャリと答えた。
「そういうの、いらない。
私がやってるのは、あんたがそばにいてくれるからだ。
一人で逃げるのと、二人で逃げるのは、全然違う」
ひなたは少しだけ、顔を上げた。
つかさの横顔は、どこまでも真っ直ぐで、どこまでも強かった。
その強さに頼ることは、悪いことじゃないのかもしれない――そう、思いたかった。
けれど、バスが次の停留所に停まったとき、何かが変わった。
乗り込んできた男が、一瞬、ふたりに目を止めた。
スーツ姿。何気ない風を装っていたが、その視線には“職業的な視線”があった。
つかさもそれに気づいたようで、ひなたの手をきゅっと握った。
「降りるよ」
「え、でも……」
「早く」
ふたりは座席を立ち、バスが出発する寸前、ドアが閉まる直前にすべり込むように降りた。
男の姿が、バスの窓に映っていた。
彼は気づいたように振り返り、少しだけ口元を歪めた――それは、確かに「追跡者」の顔だった。
バスが走り去る。
ひなたは、ようやく呼吸を整えながら、つかさを見た。
「いまの……」
「あれはたぶん、警察じゃない。探偵か、親が雇った人間かも」
ぞくりと背中をなにかが這った。
「……見つかったら、終わり?」
「そう。もう次はない」
その言葉は重く、決定的だった。
ふたりはまた歩き出した。
どこへ行くのか、何が待っているのかはわからない。
けれど、ただ手を握って、ひなたは思った。
——怖くても、つかさが隣にいるなら、私はまだ、進める。