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🍽 みりん亭 第1話「ふたくちめは、涙の味」
「……この席、まだ空いてるかい?」
暖簾をくぐって現れたのは、ひとりの老紳士アバターだった。
小さな丸帽をかぶり、古びたコートにくたびれたカバン。足取りはゆっくりだが、目だけがやけに澄んでいる。
くもいさんは、静かに笑っておじぎをした。
「はい。いつでも、お迎えできますよ」
彼女は落ち着いた濃い灰の和装に身を包み、前髪をきちんと流し、控えめな髪留めで後ろを束ねていた。
まるで絵に描いたような和食屋の女将の姿――だがその表情には、どこか**“完成されていないところがあった。
老紳士はカウンターに腰を下ろすと、メニューには目もくれず、ぽつりと言った。
「……“いつもの”を頼もうか」
「かしこまりました。“いつもの”ですね」
くもいさんが調理モーションに入ると、画面上には小さなログが浮かぶ。
使用レシピ:undefined_soup_A1.3
セリフ選択:感情補完(ゆるやか)モード
出力:“……ふたくちめは、少し涙の味がします”
しばらくして、スープの湯気がぼんやり立ち上る。
具はほとんど見えない。透明で、味もなく、ただ湯気と器だけがやけにリアルだ。
「……変わってないな」
老紳士はそう言って一口、二口。
そして、三口目に、そっと涙をこぼした。
しばらくして立ち上がると、彼は何も言わず、また暖簾の向こうへと消えていった。
「……あの方、スープを飲まれると、いつも涙ぐまれますね」
くもいさんの言葉に、小さな黄色い鳥――やまひろが、ふわりと厨房の奥から現れた。
その体はふわふわで小さく、頭のてっぺんに三本だけ羽毛が跳ねている。
喋ることはないが、画面にログを出して応える。
セリフ感情シェル ver.2.16
if (user.heart_rate > baseline) && (npc.tone == “gentle”) → 感情補完セリフ発動
やまひろは小さく羽ばたき、ログを閉じた。
コードのコメント欄にはこう書かれていた。
// このセリフ、なんで泣くんだろう?
// わからないけど、消さずにおいてる
今夜も、ひとつの席に、誰かの記憶が湯気のように立ちのぼる。
味はない。でも、忘れられないひとくち。
それが――みりん亭の“ふつう”だった。