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🍽 みりん亭 第2話「今日だけ、特別な味噌汁」
「お、おぉ……ここが、みりん亭……」
暖簾の前で戸惑いながら立ち尽くしていたのは、
ぎこちない動きの若い男性アバターだった。
髪は濃い焦げ茶色でボサボサ、パーカーとジーンズ姿。
右肩のリュックには、どこかの学校名が書かれたワッペンが貼ってある。
目元には緊張がにじみ、ログインに慣れていない様子がありありと見て取れた。
「……いらっしゃいませ。ようこそ、みりん亭へ」
くもいさんは、やわらかな笑顔で彼を迎え入れた。
今日も変わらず、深い灰色の和装に身を包み、
左の髪を控えめなかんざしで結んでいる。
「え、あ……ひとりです、けど……」
「はい、おひとり様も、大切なお客様です」
そう言ってカウンターの席へと案内するくもいさん。
彼はもじもじと座り、メニューに目を通した後、
声を絞り出すように告げた。
「……味噌汁、だけでも、いいですか?」
「もちろんでございます。今日の味噌汁は、特別です」
くもいさんは厨房に向かい、静かに調理動作に入る。
しかし、内部では異変が起きていた。
[バックエンド:やまひろのコードログ]
レシピ:味噌汁セット ver.1.8
エラー:セリフタグ「しょっぱい」→変数欠損→補完候補「しあわせ」に自動変換
出力セリフ:
「……この味は、“しあわせ”の匂いがしますね」
湯気とともに味噌汁が運ばれる。
具は豆腐とわかめ、そして小さく刻まれた長ネギ。
ごく普通の見た目の器なのに、湯気の粒が、どこか懐かしい香りを演出していた。
くもいさんが静かに言う。
「……この味は、“しあわせ”の匂いがしますね」
その言葉を聞いた瞬間、
若い客はぴたりと動きを止めた。
「……今の……その言葉……」
彼は小さく笑った。
「それ、うちの母さんが、最後に作ってくれた味噌汁の匂いと、そっくりだった」
くもいさんは目を伏せ、ひと呼吸のあと、こう返した。
「でしたら……また、明日も温めてお待ちしておりますね」
やまひろは屋根の上でログを眺めていた。
丸い鳥の姿で、光る目だけがじっと画面に注がれている。
// 「しょっぱい」じゃなく「しあわせ」って……
// ミスって、こうなるのか……
// ……戻さなくていいか。
画面を小さく閉じると、羽をひとつだけ、軽く振った。
その日の味噌汁は、エラーでできた“まちがった言葉”の味だった。
けれど、来店者にとっては、それがいちばん正しい“しあわせ”だった。
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