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hotaru🌙
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季節が二つ変わりかけた、雪解けの候。吹き抜ける風には未だ冷たさが残っているものの、日差しには仄かな春の兆しが混ざり始めていた。
店先の扉に吊るした鈴がチリンと可憐な音を立てる度、向井は無意識に作業台から顔を上げる様になっていた。しかし、入店するのは顔馴染みや、暇を持て余して世間話をしに来る近所の友人ばかりであった。
「…おおきに。気ぃ付けてなー!」
今日も又一人の客を見送り、向井は小さく息を吐いて作業台へと戻る。ルーペを片目に嵌め、ピンセットで小さな歯車を持ち上げる。そうして手元に没頭する事で心の内に在る漠然とした不安を紛らわせる、そんな日々を只管に繰り返していた。
そして、陽が茜色に傾き始めた、或る日の夕刻。
本日何度目かの鈴の音。
「はーい。いらっしゃ、」
繊細な作業の途中、ルーペ越しに手元を凝視した侭に投げかけた挨拶。其の途中で、向井の手と声がピタリと止まった。
店内に響いたのは、いつもの客の足音ではない。重く床を踏み締める様な靴音。
(………いや、まさかな…。)
軈て視界に入った見覚えの有る軍靴。固まった侭、向井は息を呑み、ゆっくりとルーペを外してその風貌に視線を沿わせ乍ら顔を上げていく。
軍服の裾から、革のベルト、そして黒い外套の衿元へと昇り──最後に、其の整った顔立ちへと辿り着いた。
「失礼する。」
低い声が耳に届いた瞬間、向井の全身から一気に力が抜けそうになった。
「康二、息災だったか?」
目の前に立って居たのは、間違いなく目黒だった。だが、最後に見送った時とは僅かに違っている。
精悍だった頬は少し痩け、薄い擦過傷の痕が幾つか残っていた。何より、背筋を真っ直ぐ伸ばして立っている筈なのに、其の体躯には何処か拭い切れない緊張と強張りが滲み出ている。
戦地と云う苛烈な場所が、彼の身体に刻み付けた爪痕だった。
でも、彼は生きて帰ってきた。
今、目の前にこうして立っている。
「…おん…。」
目黒の問いにやっとの思いで出したのは掠れた返事だけだった。目黒は彼の溢れ出しそうな感情を全て受け止めるように、暫し黙って見つめ、静かに口を開いた。
「つい先程、戦地より帰還した。」
其の一言が引き金だった。向井の瞳から大きな涙の粒が零れ落ちる。ポタポタと作業台を濡らす雫に、目黒は不思議そうに尋ねる。
「何故泣く?」
「…っ、泣いてへんし。」
「では其の涙は何だ。」
慌てて袖口で目元をぐしぐしと拭い、向井は強引に話を逸らす。
「目黒さん、一寸痩せたな。」
「…そうか?」
「顔付きも、少し変わった。」
向井は濡れた瞳の侭、眉を下げて柔らかく微笑んだ。
「でも、…ほんまに良かった…。」
目黒は暫し何も答えず、ただ向井の物悲し気な笑顔をその瞳に焼き付けるようにじっと見つめていたが、彼は軍用外套の隙間から胸元へとそっと指を差し入れた。
取り出されたのは、あの真鍮の懐中時計。目黒の手でパチンと蓋が開かれれば、店内にある何の時計よりも真っ直ぐな針音が二人の間の静寂を包み込んだ。
「…此れが在ったから、帰って来られた。」
静か乍らも揺るぎない確信を込めた声だった。
「只の寄せ集めの時計やで?」
「其れでも、戦地に居た私には大切な物だった。」
目黒の言葉に、向井はもう何も言えなくなった。
苛烈な戦場で、彼がどんな残酷な時間を過ごしてきたのか。
何を見、何を思い、何れ程の死線を潜り抜けてきたのか。
其の身体の硬さや、未だ鋭さの残る目付きを見ても、向井には想像する事しか出来ない。
目黒も又、戦場の出来事を語るつもりは無いのだろう。
けれど、彼は約束を果たし、此の店──向井の元へと帰って来た。
今は只、それだけで胸が一杯だった。
「…手紙、有難うな。」
「無事届いたか。」
「うん、吃驚したわ。」
「…そうか。書いて良かった。」
先程より明るさを増していく向井の笑顔に、目黒はほんの少しだけ視線を落とす。すると、向井は《あっ、》と作業台から身を乗り出した。
「せや、目黒さん。諸々落ち着いた時でええから、今度一緒にお出掛けせぇへん?」
「お出掛け?」
不意を突かれた様に目黒が眉を顰めると向井は子供の様に、にっと笑う。
「前に話してたカフェー。目黒さんを連れて行きたいねん!」
其れは目黒が出征するより少し前、未だ二人の間に浅い遠慮が有った頃に、向井が思い出としてふと口にしていた渡辺の喫茶店だった。
遠い戦地で命を削っていた男に未来の楽しみを約束したくて、向井の瞳はキラキラと輝いている。其の瞳に煽られ、目黒は少し思案する様に視線を泳がせた。
帰還後の雑務が頭を過ぎるが、向井の真っ直ぐで健気な眼差しを受け止めると、鋭かった目力が徐々に柔らかく緩んでいった。
「…分かった。日取りを見ておこう。」
「へへっ、約束やで!」
向井は心の底から嬉しそうに破顔した其の時。
「…ん?『約束』…あっ、目黒さんの時計!」
自分で発した単語に目を丸くすると、預かっていた目黒家の由緒ある懐中時計の存在を思い出し、
「待っとってな!奥に大事に仕舞ってあんねん!」
バタバタと足音を立て、奥の倉庫へと走っていく向井の後ろ姿を目黒は只、静かに見送る。
(…相変わらず慌ただしい奴だ。)
呆れつつも何処か深く安堵した様に、ふっと目黒はほんの僅かに唇の片端を上げた。
程無くして目黒邸へと戻り、久方振りにくぐる見慣れた門扉。 重厚な鉄門がギィと重い音を立てて開かれれば、其の向こうには、冷ややかな静寂に包まれた変わらぬ屋敷が佇んでいる。
「「「御帰りなさいませ、御館様。」」」
門前で深々と頭を下げる使用人達の恭順にも一切の反応を示さず、瞳の温度を下げた目黒は其の間を風の様に通り過ぎて行く。
一番手前に控えて居たラウールは、主が自身の前を通り過ぎた事を確認すると、影の如く彼の半歩後ろへと付き従った。
戦地から戻ったばかりとは思えぬ程、目黒の足取りに迷いは無い。だが、固く結ばれた口元と横顔には、消し去れぬ僅かな疲労が滲んでいた。
静まり返る屋敷へ足を踏み入れた所で、暗がりの廊下の奥から一人の青年が姿を現す。
「兄様…!」
弟の亮平だった。待ち侘びていた兄の姿を認めると、安堵を瞳に宿して穏やかな笑顔で駆け寄って来る。
「少し痩せられた様にお見受けします。御身体は、」
「大事無い。」
言葉を遮る短い返答に亮平は一瞬だけ息を呑んで口を噤んだものの、案じる眼差しで直ぐに又、兄へと視線を向けた。だが、
「未だ片付けねばならない事が有る。もう良いか?」
「でも、兄様…今日はお休みになられた方が…、」
「亮平。」
取り付く島も無く名を呼ばれ、亮平が弾かれた様に顔を上げる。
「後にしろ。」
「………はい。」
淡々とした低い声音。其れ以上の踏み込みを断固として拒む、冷えた横顔。
昔から、兄はそういう人だった。血を分けた家族に対してすら、己の内に抱える本心を決して見せようとしない。
「…兄様、御帰りなさい。」
「………。」
絞り出した言葉だけを告げると、目黒は一瞥もくれず亮平の横を通り過ぎて行く。
「…ラウール。」
先を歩く目黒から、低く短い声が掛かる。
「はい。」
「軍への報告書を作成する。準備を。」
「畏まりました。」
一切の無駄が無い二人の足音が、冷たく長い廊下の奥へと遠去かって行く。
其の背中を、亮平は胸を締め付けられる様な寂しさを湛えて見送り乍ら、ぐっと唇を結んだ。
コメント
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雫さぁん( TДT) めめ🖤の帰還は嬉しい✨こじ🧡良かったねぇ♪とは、思う… りょへ💚が可哀想だよう💦
雫さん、こんばんは。いつも楽しく読ませてもらっています。🖤が無事に帰還できてよかった…!これから先の展開が気になります。続きも楽しみにしております!