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hotaru🌙
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向井が硝子戸を開けると、香ばしい珈琲豆の馨りと、蓄音機から流れるレコードの音楽が店内を満たしていた。
「なべさん、入るでー!」
馴染みの店らしく気安く声を掛け、向井は案内される間も無く遠慮無しにすたすたと奥のテーブル席へ向かう。
カウンターの奥でカップを拭いていた渡辺は、向井の声に合わせて顔を上げた。
「おい、康二!お前、」
言葉の途中で、渡辺の動く手がピタリと止まり、其の侭固まる。其れは、向井の直ぐ後ろを追う様に歩く、妙に姿勢の良い影を見た瞬間の事だった。
其の隙の無さ。冷たく澄んだ佇まいの背の高い男は──目黒だ。
(…な…何で、目黒伯爵がうちに…?!)
時同じくして、ドリップをしていた店主の指先も止まる。
交流が有るとは聞いていたものの、唐突な上流華族御本人の登場。店内を包んでいた緩やかな空気に、張り詰めた緊張が走った。
「なべさん?おっちゃんも…如何したん、石みたいに固まって。」
不思議そうに振り返る向井。渡辺も店主も答える事も出来ず、目黒の姿を凝視していた。其の視線に気付いた目黒は静かに被っていた中折れ帽子を脱ぎ、頷く様に会釈をした。
「…あっ、と…いらっしゃい ませ…。」
渡辺は喉を鳴らし、漸く其れだけを搾り出した。
「良い雰囲気だ。」
目黒は胸元から取り出した紙煙草に静かに燐寸で火を点けると、紫煙をゆったりと燻らせ乍ら、木目の温もりが残る店内へと視線を巡らせた。
「せやろ?………あ。」
返した瞬間にハッと息を呑み、向井は慌てて口元を押さえた。店には自分達だけでなく、カウンターから様子を伺う渡辺と店主が居る。他の誰かが居る場所では敬語に戻す、と固く決めていたのに、つい普段通りの距離感で口を滑らせてしまった。
気まずそうに身を縮める向井を目黒は一瞥したが、特に気に留める様子等微塵も無く、彼の思考を察して小さく頷き乍ら、手元の品書きへと視線を落とした。
「…随分と安いな。」
「『閣下』が普段から召し上がっているのと比べたら…そりゃあ…ねぇ。」
ぽりぽりと鼻先を掻き乍ら口調を敬語へと戻し、向井は呟く。
目黒は燻る紙煙草を指先で遊ばせると、紫煙の向こうから、そんな彼の様子を静かに見ていた。
一方で、カウンターの奥では渡辺と店主が生唾をゴクリと呑み込んでいた。
《…親父、早く注文取りに行けって。》
《何で俺なんだよ、給仕は翔太だろうが。》
《華族が来てんだから先ず店主が行けよ!》
《康二くんも居るし、閣下もお前と歳近いだろ!》
《歳関係ねぇよ、どんだけ必死なんだよ…!》
小声でぎゃいぎゃい言い合う親子に気付く事も無く、
「なべさーん、おっちゃーん、珈琲二つ頼むわぁ!」
向井が手を挙げ、注文の声を直接飛ばしてきた。
「「は、はぁーい…。」」
安堵の息を漏らし乍ら、ややぎこちない動きで店主は珈琲を、渡辺はソーサーとカップの準備を始めた。
いつも以上に集中して珈琲を淹れる店主に渡辺が眉を寄せて痺れを切らしそうになっていた時。店の硝子戸と鈴の音を立てて入って来たのは、
「邪魔するよ。店は混んで…ないね。良かった。珈琲一杯下さいな。」
《辰さん…!ちょっ、ちょっ…こっち!》
「…えぇ?何ー?」
助けを求める様に小声で手招く渡辺に、ヘラヘラとし乍ら近付く深澤は奥の席を見遣る。
「あ、康二も居る。おーい、康…」
向井の姿を捉え、いつもの調子で手を挙げかけ──其の向かいに腰掛ける男の存在に気付き、深澤は僅かに動きを止めた。
「………あ。」
上質な洋装に身を包み、紫煙の向こうから静寂を湛えた瞳をした目黒と視線がかち合う。少しだけ驚いた様に目を見開く彼に、深澤は一瞬だけ目を細めた。
其処に渡辺親子が見せた様な分かり易い狼狽や怯えは無い。寧ろ、渡辺への進路方向を切り替えて深澤は自ら向井達の方へと歩を進めて行った。
「此れは此れは、目黒伯爵。御機嫌麗しゅう。」
深澤は眼鏡の鼻橋を指先で持ち上げてふっと口元に笑みを浮かべると、物怖じ一つせず、けれど何処か恭しく線を引く様な他人行儀の仕草で深々と頭を下げた。
「…あれっ、深さん!?」
急に現れて畏まった態度を取る深澤に、向井が目を丸くして二人を交互に見つめる。
「あ、えっと…閣下、此の人も俺の幼馴染で。古書店を営んでいて…、」
「知っている。」
「えっ?」「おや?」
向井が素頓狂に、深澤は意外そうに各々声を上げた。
深澤としてはお忍びで来店する目黒の立場を思い、此の場では他人の振りを決め込もうとしていたのだ。
「久方振りだな、深澤殿。」
だが、あっさりと其の関係を認めた目黒に深澤は肩を竦めると、いつもの調子の良い笑みを顔に浮かべた。
「どーもご無沙汰で。…云って良かったのですね。黙っていようと思っていたのに。」
「繋がりが有るとは知らなくてな。」
目黒は指先で煙草を揉み消し乍ら、素気無く短く返した。向井の周りに居る人間ならば余計な隠し立て等不要だと言わんばかりの目黒の態度に、向井は暫くきょとんとしていた。
「…何やねん深さん!知り合いなら先に云ってや!」
蚊帳の外に置かれていた事を知り、向井がキーキーと声を上げる。
カウンターの奥の親子は、更なる衝撃に開いた口が塞がらない様子で呆然と眺めていたが、軈て三人に背中を向けてひそひそと何やら話し合い始めた。
《…親父、結局如何すんだよ。》
《何が?》
《何がじゃねぇよ、珈琲!》
二人の視線が、揃ってカウンターの上に置かれた、深澤の分も含む三客の珈琲へ落ちる。
《…だから翔太が持って行けって。》
《嫌だよ!》
《給仕だろ。》
《親父だって店主だろ。》
「「………。」」
暫しの沈黙。
此の侭では堂々巡りになると察した二人は、無言の侭、示し合わせた様にカウンターの陰へ手を隠した。
《…せーの、》
《《じゃん、けん、》》
ぽん。
互いの手を見遣り、渡辺が深々と溜息を吐く。
《…俺かよぉお…っ!》
「っへへ、」
《笑ってんじゃねぇよ!》
ムッとする息子の背中を、店主は安心感から半ば茶化す様にぽんと押す。渡辺は恨めしそうに振り返り乍らも、三人分の珈琲を載せたトレイを手に奥の席へと向かって行った。
「お待たせ致しました…。」
各々の目の前に、湯気と香ばしい馨りを立てる珈琲が静かに差し出された。しかし、誰一人として直ぐには手に取ろうとしない。
目黒は手元のカップをじっと見つめると、目の前の向井へちらりと静かに視線を遣った。向井は《お先にどうぞ。ほんまに美味いんで。》と誇らし気に微笑み、深く首を縦に振ってみせる。
彼に促される侭、目黒は静かにカップの持ち手に指を掛けて持ち上げる。
一口。黒い液体の深い苦味と膨よかな馨りが、口内にゆったりと拡がっていく。
「………、?」
眉根を僅かに寄せ、目黒はもう一口、喉を鳴らした。
(…確かに美味い。)
風味の切れも、馨りの立ち方も申し分無い。使用している豆も、其の挽き方も、丁寧な淹れ方である事も──以前、向井が淹れてくれたあの珈琲と大きく違う様には思えない。
なのに。
(何かが違う。)
喉を通った後、雑味も無く不思議な程に澄んでいる。
目黒は深く思案する様にカップを静かにソーサーへと戻すと、暫し無言の侭、其処に映る黒い水面を凝視し…軈てぽつりと、
「…水、か?」
静寂の広がる店内に、其の低い声が響いた。
「「「えっ?」」」
向井と渡辺、そしてカウンターの奥で息を殺していた店主迄もが、全く同じ間で気の抜けた声を上げた。
「…店主に伺いたい。豆も、挽き方や淹れ方も、康二に全て教えたのだろう?」
「は、はいっ!」
不意を突かれた店主は、生唾を呑み込み乍ら恐る恐る頷いた。
「ならば、此の違いは水かと推察するが…如何か。」
「、…相違御座いません。」
店主は信じられないものを見るように、驚愕で目を丸くした。
「当店では、毎日早朝に山から汲んで来る天然水を使っております。他の水では、此の豆の良さを引き出し切れませんので。」
彼の説明に目黒は再び静かにカップを手に取ると、今度は先程よりも意識を研ぎ澄ませる様にして、ゆっくりと口へ運んだ。
「成程、同じ豆や技法を用いても、水が違うだけで随分と味わいが変わるものなのだな…。」
小さく呟いた目黒は、手元の珈琲を見つめた侭、納得した様に何度か小さく首を縦に振った。常に淡々としていた其の声音には、極僅かであるものの珍しく愉し気な響きが混ざっていた。
(──面白い。)
彼の目元が、僅かに柔らかく緩む。其の密やかな変化を誰よりも早く感じ取った向井は、嬉しさに胸を躍らせ乍ら、無邪気に目黒の顔を覗き込んだ。
「今、意外と奥深いって思わはりました?」
「…否めないな。」
にんまりと悪戯っぽく覗き込んでくる向井に目黒は短く答えると、見透かされた事に目を逸らし、誤魔化す様に今一度珈琲を口に含んだ。