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道端にあざやかなピンク色が列を成している。目に痛いその色があまり好きではなかった。なんだってこんな自己主張の強い花を植えるのかと眉を顰めると隣にいた司くんが「ここも躑躅がいっぱいだね」と嬉しそうに笑った。
「つつじ?」
「この花の名前だよ。俺、躑躅好きなんだよね」
「ふぅん」
花の名前なんてバラと桜、ひまわりぐらいしか知らない。司くんはわりと何でも知っている。バスケのルールだったり流行りの歌だったり最近なんとかの賞を取った小説だったりと様々だ。
「蜜がねおいしいんだよ」
「え」
司くんはそう言うとぽきと簡単に花を摘んで花びらの下側に口をつけ、ちゅうと吸った。は?
「ちょ、司くんなにしてるの」
「蜜吸ってる。純くんも吸う?」
「す、わない……汚いよ」
司くんは知らないのだろうか。この辺に犬の散歩をしている人がいることを。犬はあちこちにおしっこをかける。きっとこのつつじの花の地面にも犬らはおしっこをかけているだろう。それはつまり花は地面からおしっこを吸い上げているわけで。
「やめな、汚い、病気になるよ」
「ならないよーこれちょっと甘くて美味しいんだよ。純くんも吸ってみなよ」
「嫌だ、ね、やめて」
ひまわりみたいな司くん。笑顔が花みたいにぱあっと開いて僕の心を惹きつける。君の笑っている顔が好き。君の指先まで滑らかで美しいスケートが好き。そんな君が花の蜜を吸うなんてまるで妖精のようだけどでもでもそれは汚いよ。花の蜜を吸いたいなら花屋とかで売ってる切り花じゃだめなのか。
「司くんやめて」
「純くんがそこまで言うなら……ちぇーいいおやつなのに」
「おやつならこれあげるから」
「それ匠先生からエネルギー補充しろって渡されたブドウ糖じゃん。まだ食べてなかったの?」
「甘いからいらない。司くんあげるからつつじはダメだよ、汚い」
「汚くないって」
「……花の蜜が好きなの?」
「つつじは甘いから好き」
「そう」
「吸ってみる?」
「やだ」
ちゅうと吸ったピンクの花弁を司くんは用済みだと地面にポイッと捨てた。あちこちに落ちた花弁はまるで死体のよう。いくら彼でも吸ったあとにそんな簡単に捨てるのかと気分が悪い。
「ねぇ、そんな簡単に捨てるの」
「うん。いらないから」
「蜜を欲しがっておいて?」
「うん」
だからね、とオレンジかかった唇がうごく。ふっくらとしていてて笑ったり食べたりしている時は大きく開くのに閉じている時は意外と小さい。
「純くんも、もういらない」
全日本の夜、ベッドの上で見た日に焼けてない白くまろやかな肢体が白濁の蜜をこぼして笑って消えた。
「……っ、つか」
ガバリと起き上がって暗闇の中に手を伸ばした。何も掴めない手は暗闇の中で無様に泳ぐだけでそれで今目の前にあった光景が夢だと理解する。バクバクと心臓はうるさくまるでクアドジャンプを数回飛んだ後のようだ。
寝ている間にかいていた汗が冷えて寒い。両腕を抱きしめると肌がべたついて不快感が増した。舌打ちをしてサイドテーブルに置いていた常温の水をひとくち飲んでからベッドを出てバスルームに足を向けた。この不快感を取り除かないと眠ることは出来ない。明日、日付が変わっているから今日か、今日は早朝練習だ。寝ないと体がもたない。
そしてなにより浅ましく主張する雄の象徴を収めたかった。冷たいシャワーを浴びてもそこだけは熱が下がらない。舌打ちをして手を伸ばす。ドクドクと脈打つ幹を掴めばそれだけで甘美でくらりとする。
「……っ、は、……っ」
思い浮かべるのはあの日の夜。僕がこの世で一番幸せだと感じた全日本ノービスの夜。
「つかさ、つかさっ」
名前を呼ぶ。あのときのように。擦る手を早めて猿のようにがむしゃらに快楽を求める。司を求める。瞼の裏にはあの時の夜の司の痴態が浮かぶ。健康的な肌の色と日に焼けてない肌のコントラスト、しなやかな筋肉、つややかな唇、潤んだ瞳、自分と同じように熱を孕んだ雄、スケートのために鍛えた太腿に熱を押し付けたあの背徳感、重なる乱れた呼吸、お互いの名前を呼び合う声。
それら全てが愛おしくて。
「……っ、でる、司っ」
吐き出した熱は一気に冷めていって僕をひとりぼっちにさせる。
「……くそっ」
それら全てが憎らしかった。
まるで司はシンデレラみたいだよな。灰被りの可哀想な召使い。
そうだから、ガラスの靴がないと舞踏会に行けない。
王子様に会うことは出来ない。
「本当にいいのか?」
「いいんです、決めたので……今までありがとうございました。匠先生のおかげでほんの一瞬ですけどスケート選手になれて、しかも金メダルを取ることができました」
一生の宝物だ。この三年間。たまたま見た氷上の純くんに憧れて同じ世界で生きたいと願い大須のスケート場にお年玉かき集めて通った。そんな俺に声をかけてくれた匠先生には感謝してもし足りない。
ロッカーの中を片付けながら三年前のことを思い出す。
『うまいな、どこのクラブだ?』
『クラブには入ってないです……あの!』
『ん?』
『俺、俺も夜鷹純のようにスケートしたいです!どうやったらなれますか!?彼のように……氷上で生きたいんです!』
初めてまだ一ヶ月。なんとか氷の上で転ばなくなったそんな初心者の無謀な夢を匠先生は笑うことなく呆れることなく真剣に耳を傾けてそうだなぁと傷のある顎を撫でながら教えてくれた。
『クラブに所属しろ。それ以外でこの世界では進めない。けれフィギュアスケートは金がかかる。でもお前が本気でこの世界に夜鷹純を目指したいなら俺は親御さんに一緒に話してやれる。お前をこっち側へ呼ぶことは出来る』
どうしたい?そう尋ねる匠先生は俺の答えをわかっていた。わかっていてその手を自分でとるんだと選び決断するのは俺だと教えてくれた。
『生きたい……氷の上で俺は生きたいです!俺にスケートを教えてください!!』
お願いしますと勢いよく頭を下げた俺に顔を上げろと匠先生は言うと再度手を差し出してくれた。俺はその手を掴んだ。母さんを先生は説得してくれたおかげでルクス東山に入ることが出来た。
入って一年はバッジテストのために費やした。遅くに始めた遅れを取り戻すためにだ。バッジテストはお金がかかるから母さんには嫌な顔されたけどそれでもめげずに最短で取っていく。そんなときバッジテスト六級を受ける時と同じくして純くんがルクス東山にやってきた。憧れの人が目の前にいて興奮を隠せなくて勇気を持って話しかけたのが俺たちの始まり。
『あ、あの!夜鷹、くん!俺、君に憧れてスケート始めたんだ!』
『……そう』
『だから同じクラブになれてすごく嬉しい!よかったら俺、』
『邪魔』
そう言って俺の横をすり抜けて行った。あの頃の純くんは本当に冷たかった。あまりの冷たさに思わずうりゅってなっちゃって瞳さんから泣かないの!と叱咤されたし洸平くんはよしよしってずっと慰めてくれてジュナくんは……うん。
それから純くんは誰とも話さなくて匠先生の娘である瞳さんにまでつっけんどんな態度で。というか匠先生にも必要最低限って感じで。どんどん浮いて他の子とも俺と同じような態度をとって、トラブルを起こしてたりしていた。
クラブの雰囲気が悪くなりかけたそんな時だった。母さんと今後の話をするからと居残っていた俺は誰もいないだろうと駐車場の片隅で純くんの今季の匠先生が作ったプログラムを真似て踊っていた。純くんのジャンプもスピンもなにもかもカッコよかった。あんな風になりたいな。皆が拍手せざる得ない、心臓を鷲掴みにされて脳を揺さぶられるようなそんな演技を俺もしたい。そう思ってくるくる思い出しながらやっていたらガシッと腕を掴まれた。
『よ、夜鷹くん』
『それ、僕の』
『ご、ごめん!今日曲通しやってるの見てつい……別に夜鷹くんのプログラムを盗ろうとかそういうんじゃなくて』
『高峰先生から教わったの?』
『ううん、俺今日初めて見て』
『初めて?』
『う、うん』
純くんの金メダルみたいな金の眼がこれでもかと開いて俺を見つめる。あの時罪状を言い渡されるのを待つ罪人の気分だったなぁ。もしかしたらクラブを辞めろとか泥棒とか言われるのかもとすごく怖かったのを覚えている。純くんは少し間を置いて『来て』と俺を引っ張って建物の中へと引きずって行った。するとちょうど話が終わったのか母さんと匠先生が廊下にいたけど匠先生の顔は苦い顔で母さんもあまりいい顔してない。あ、これは話し合いよくなかったんだとすぐに理解した。表に出ようとしている大人と逆に中へと行こうとする純くんと俺に匠先生が不思議そうに呼び止めた。
『何してんだ、もう帰る時間だぞ』
『製氷遅れているんでしょ』
『おいおい、ダメに決まって』
『この子の能力、先生は知ってるの?』
『……司、なにした』
『ご、ごめんなさい、夜鷹くんの今日踊ったプログラムを駐車場で真似てて』
『あーそういう……司くんのお母さん、少しだけお時間よろしいですか?』
『え?』
『私は司くんは全日本に行けると確信しております。それを貴女にも見ていただきたい。そうすれば納得するはずです』
匠先生の言葉で理解した。ノービスの大会の参加を母さんは許してくれなかったんだ、と。大会に出るとなるとお金がかかる。衣装代に大会参加費、交通費もろもろ。母さんはただ習うだけならとクラブに入ることを許してくれた。バッジテストもお金かかるけど先生がうまいこと丸み込めてくれていたから受けることは出来たが大会となるとそうはいかなかったみたいだ。
そんな大人の会話を聞いていた純くんは急かすようにスケート靴を履くようにせっつく。言われるがまま履いていると純くんが隣で同じように履きながら話しかけてきた。
『大会、出ないつもり?』
『……出たいよ。出たいけど……お金かかるから』
『出たいって言ったの』
『……』
自分からははっきりと言えなかった。お金がかかるのはわかっているから。やらせてもらえているだけで十分だと思っている自分がいた。でも本当は。
『大人は僕ら子供のことを勝手に決める』
『夜鷹くん?』
『だから意思表示はしたほうがいい。僕はそうした』
『……夜鷹くんはなんて言ったの』
金色の瞳が俺を射抜く。鋭くて震える。
『すべての大会で金メダルをとる。だから僕に賭けろ』
なんという宣言だろうか。同い年なのになんでこんなにも強くなれるのか。眩くて俺は目を細めた。
『でも、君はそんな僕を脅かすかもね』
『え?』
『見せて。僕に、僕以外のスケートを。君が氷の上で生きる姿を』
エッジカバーを外して製氷前のでこぼこした氷の上に立つ。氷の状態が悪いから気をつけて滑らないといけない。気をつけながらエッジを傾ける。曲は流れないが脳内には純くんのプログラム、死の舞踏。曲が流れて俺は純くんをトレースしていく。ジャンプは彼のように3回転アクセルや4回転は飛べないからダウングレードしたものだけどそれ以外は純くんと同じように踊った。陸の上でもだけど氷の上でもこのプログラムのキツさがわかる。息はすぐに切れて肺に入ってくる冷たい空気が痛い。それでも楽しくて仕方ない。ああ、純くんはやっぱりすごい。俺も純くんのように滑りたい。純くんのように大会に出て金メダルが欲しい。
この氷の上で生きていたい。
そう思いながら最後にフィニッシュのポーズをとった。
視線の先には匠先生と驚く母さんと満足気な純くん。
『はぁ、はぁ、はぁ……えっと』
なんて言えばいいのかわからなくて、母さんの視線がこわくて俯く俺に純くんが言葉を発した。
『彼は』
俺を見つめて逸らさないまま。
『僕と同じだ。氷の上で生きていく』
『……』
『お母さん、司くんはこれを練習していません。今日この子、夜鷹純くんの通しを一度見ただけでトレースしてみせた。純くんのプログラムはノービスの中でも最高難易度、いえジュニアに匹敵するものです。それを一度見ただけでやってみせた。これは才能です。元々覚えが早くどう動いたらいいかを明確に理解し言語化できる成長の早い子だと私は思っていましたがこれほどまでとは私自身甘く見ていた彼の才能を』
匠先生が言葉を紡いでいく。俺を肯定し応援する言葉。それだけで冷たく凍った肺が熱くなる。
『大会に出るべきです。この子は、司くんはメダリストになれる。彼の才能を潰さないで欲しい。これはコーチとしてだけでなく元選手である私の願いです。幼い後輩の夢を叶えてやりたい』
お願いします、と頭を下げる匠先生に俺は今ここで言わなきゃと震える手を握りしめて母さん!と呼んだ。
『……母さん!俺、大会に出たい!大会に出て金メダルとりたい!一番になりたい!ただ滑るだけじゃ嫌なんだ……』
『つかさ……』
『わがまま言ってるのわかってる!お金だってかかるのわかってる!それでも!俺はこの冷たい氷の上で生きたいって思うんだ!スケートできるなら他にはなにもいらない!ゲームもおもちゃもお菓子もお小遣いもご馳走だっていらない!』
はらはらと頬に熱いものが伝っていく。冷たい風に凍った頬が溶けていく。ずっと凍えていたっていい。ぎゅううと握りしめた手にそっと手が触れる。人生で一番の勇気を振り絞った。そうできたのは匠先生が頭を下げてくれたから、そして。
『じゅん、くん』
『手、雑に扱わないで』
いつの間にか氷の上にやってきていた純くんが俺の握りしめていた手を解きやさしく握り返してきた。まるで迷子の子の手を引くように。
『君のスケーティングはとても綺麗だ。指先にまで魂がこもっている』
『え、あ、ありがとう……』
『でもそれだけじゃない。見ている人を灼き焦がすまるで太陽みたいな。僕とは真逆』
前に純くんを取材した記者の記事を思い出した。そこには彼は夜だといった。真夜中の朗々と輝く月だと。そして皆が絶望する。夜の闇に飲まれ右も左もわからなくなって膝から崩れ落ちていく。崩れて見上げた先の月の光の眩いばかりの光に魅入られ堕ちて戻ることは無い、と。
『イカロスの翼って知ってる?君はきっとそうやってたくさんの人の翼を奪うかもね』
『えと』
『僕と君どっちが強いのかな』
くるりと純くんは母さんたちの方へと向き合う。大人を物怖じしない純くんに明らかに大人の方が圧倒されている。獣狩るような猛禽類の瞳。その瞳が眩くておそろしいほどに綺麗で近くで見ていたいと思った。
『僕はそれが知りたい。彼のスケートを近くで見たい』
涙が止まらなかった。俺の脳を焼いた氷の上にいたいと思わせた彼が俺を認めて俺を阻む者から守ってくれている。まるで王子様のように。
『邪魔、しないで』
そうやって匠先生と純くんに説得され母さんは頷いてくれた。帰り道母さんが運転する車の中で母さんは前を向いたまま驚いたと言った。
『司、あんなに綺麗に踊るんだね』
『……』
『お母さんにできること少ないかもだけど……あなたの邪魔をしたいわけじゃないの。大会頑張って』
『うんっ』
『それにしてもあの……よだかくん?すごい迫力ね。仲良いの?』
『ううん。前に話しかけたとき邪魔って言われた。でもねすごいんだよ!俺と同い年で俺と身長変わらないのにすごく高く跳ぶんだ!三回転アクセルも四回転もたくさん跳んでるのにギュルンギュルンってスピンがすごくて!』
『ふふ、あんたその子のこと大好きなんだね』
『うん!』
当然だ。彼は憧れの王子様なのだ。氷上で唯一無二の輝く存在。
次の日から全日本ノービスAの中部ブロックに向けて練習が始まった。それと同時に純くんが俺への態度が180度変わった。何をするでも『司くん司くん』って俺の名前を呼んで俺にあれしてこれして見た?やってとついてまわるようになったし俺も純くんになにあれすごい俺もしたいと彼にひっついてまわった。昨日とまるきり違う俺たちに何があったのと瞳さんたちが血相を変えて聞いてきたから俺は苦笑いしながら純くんってロマンチストなんだよと教えてあげた。
それから俺を通して純くんはクラブのみんなと馴染んでいって楽しい一年だった。結果は純くんがシードでいなかった中部ブロックで俺は金をとり全日本では銀をとった。
でも全日本が終わってぐらいから俺の身長はこれでもかと伸び始めてほとんど練習ができない日々が続いた。鬱屈した気分のそのなかで両親からもうスケートは辞めてくれと言われた。せめてと全日本までやらせて欲しいとお願いした。
足を故障してもいい。これで最後ならもう滑られなくてもかまわない。そう思って無理な練習も始めて匠先生を困らせたし瞳さんたに心配をかけた。せめての救いは純くんがルクス東山を去って福岡のクラブに移籍したことだ。きっと傍で見ていたら怒られただろうから。
スケートできなくなる俺なんてきっと純くんはすぐ忘れちゃう。純くんに忘れられるのは嫌だった。スケートに本気じゃないのかと思われるのも嫌だった。そこで気づいた。ああ、俺って純くんが好きなんだ、特別な好きなんだって。
だから金メダルをとったその日の夜純くんに呼ばれて行った部屋で純くんが俺に欲情しているのを見てうれしかった。ああ、氷の上を降りているのに純くんは俺を求めているんだって、嬉しくて嬉しくて悲しい。互いの体を触って抱きしめあって幸せなのにもうこれが最後なんだと涙が止まらなかった。
『司?どうしたの』
『……足、いたくて』
『そう、ならさすってあげるね。だから泣かないで』
優しい純くん。疲れて眠いのにずっと俺の膝をさすって涙を拭ってくれた。
大好き、大好きだよ純くん。俺ね初めて君を見た時おとぎ話の王子様みたいって思ったんだ。毎日弟の世話をして家のこともやるように言われててそれを友達にからかわれた。まるで司はシンデレラみたいだなってこき使われてって。そんな俺が氷の上で踊る君を見てこんなに綺麗な世界があってこんなに綺麗な人がいるんだって初めて知ったんだ。だから一度でいい同じ氷の上に立って一緒に滑りたいって、そう思った。シンデレラが王子様に憧れてお城の舞踏会に行きたいと願ったように。
『ねぇ、司』
『……なに?』
『前にアイスダンスのステップしたのまたやろうね』
『……うん、したいね』
『約束だよ』
スケート靴は俺にとってのガラスの靴だ。王子様に会うための。
でももう履けない。だから、もう。
「司くん!」
「瞳さん……洸平くん、ジュナくん」
呼ばれて振り向くとそこには涙目のみんな。
「本当に辞めんのかよつーくん」
「うん。そういう約束だから」
最後の挨拶はしないでおこうと思った。皆の貴重な練習時間を取らせたくなかったから。でも匠先生はそれを許してくれなかったみたい。皆納得いってないって顔してる。そんなのおかしいって。普段から応援に来ないうちの家族のことおかしいって言ってくれてたから。でもお金がとても大変だってこともわからない年齢じゃない。だから引き止めることもできない。
「……待ってる」
「瞳さん」
「スケートバカの司くんは絶対また滑りたくなるもん!シングルは無理でもアイスダンスならできるしっ……だからっ」
「ひーちゃん」
洸平くんが泣き出した瞳さんを宥める。たまらず洸平くんの肩に顔を埋めて泣き出した年上の彼女の栗色の髪を撫でる。つやつやで綺麗な髪に触れるのは本当はよくないかもしれないけど時々彼女がお姉さんぶって俺の髪を撫でてくれたのが嬉しくて好きだったから返してあげたかった。気づけば頭一つちかく俺はお姉ちゃんより背が高くなっていた。
「泣き虫なお姉ちゃんだね」
「……っ」
「俺の事弟のように可愛がってくれてありがとう。大好きだよ、応援してる」
「……選手はダメでも滑りにおいでよ、ね?僕らもここでの練習はあるし」
「……ん」
でもきっと行かない。遊びじゃないから。趣味じゃ我慢できないから。生きれないぐらいならもう関わりたくない。離れて生きた方がきっと苦しくない。
「じゃあ、ね」
これ以上は耐えきれなくて荷物を持ってリンクメイトたちに背を向ける。
「……僕はつーくんのスケートが好きだ!!夜鷹よりずっとずっとうまくてずっと見ていたいって思ってる!!だから、だから……!戻ってこい!!絶対いつか!!お前は、司くんは!ここで、ここでしか生きれないんだよ!!」
ジュナくんの言葉が背中にぶつけられる。振り返らずに出ていくと静かなロビーから泣き声が遠く響く。
ありがとう。ごめんなさい。あんなによくしてくれたのに何も返せなくてごめんなさい。これからは遠くで皆の成功を祈っている。
プー、と車のクラクションが聞こえた。音がするほうを見ると見慣れた明浦路家のバンが駐車場にあって驚く。初めてじゃないか、迎えに来るなんて。
運転席に父さん、助手席に母さんがいて後部座席のスライドドアを開けたらそこには兄ちゃんがいた。
「どうしたの、お迎えなんて」
「荷物色々あるかと思って。あと父さんたち挨拶に行くって」
「高峰先生は中にいるか?」
「うん、いるよ」
「ちょっとお母さんたち行ってくるね。司、今日の夕飯なにがいい?お兄ちゃんと決めてて」
ふたりはそう言うと車から降りて行った。ふぅと兄ちゃんがひとつ息を吐く。
「司、足は痛くないか?」
「うん。平気。これからは痛くなることもなくなるかな」
「……何食いたい?外食でもいいしなんならピザとか買ってもいいって。決めたら誠らを迎えに行くからさ」
「うん」
「……みんなとさよならできた?」
「うん」
「……寒くないか?兄ちゃんの服貸してやるよ」
「……うん」
頭に兄ちゃんのパーカーが被せられる。高校生になって香水をつけるようになった兄の服からは爽やかなマリンの香りがした。少しだけ氷の上の清々しい冷たい空気に似ている。
頬が熱い。喉にせり上る嗚咽を押し殺す。泣くなよ。泣いたら困らせるってわかっているだろ。兄ちゃんは最後まで父さんたちに反対してくれていたのに。自分のバイト代俺のスケートに全部使ってくれなんて言ってくれてたほどなのに。
「他に、楽しいことやりたいこと見つけよう。今度こそずっとやれるように俺言うから」
そんなものに出会えるのだろうか。テーピングした痣だらけの足が誇らしかった。夏でも冷たい風を頬に受けることは楽しかった。ブレードが氷を削る音は何よりも聞き心地がよかった。笑顔を作る練習は大変だったけど氷の上で笑って演技をすると手拍子が聞こえてきてうれしかった。ジャンプをして着地した時の痛みは何ものにも変えがたかった。初めて衣装を着た時憧れに近づけて幸せだった。キスクラで点数が出る時のドキドキは数回だけだったけどなれることはなかった。首にかかったメダルの重さに驚いた。
『司、次は負けない』
頷きたかった。俺だって譲らないって言いたかった!
でももう俺には必要のないものになった。
純くんが綺麗だと言ってくれたスケーティングも、純くんが飛んで見せてくれたジャンプも、純くんがほめてくれたスピンも全部全部!
「ああ……うああっ……」
泣いても泣いてもこの現実は変えられない。
魔法の時間はもう終わってしまったのだから。
いつまでも腕の中のスケート靴を抱きしめて泣いた。
去年の全日本ジュニアでは純は優勝を果たし、司はジャンプをひとつミスしたのが響き表彰台を逃しそれでも五位と健闘した。
そしてシーズン終了後、純はルクス東山から福岡FSCへと移籍。移籍の際にグズグズと泣いて別れを惜しんだふたりだったが夏の強化合宿で会うと変わらず仲良くコンパルソリーしている姿を見てふたりに離れても問題なかったなと溜飲が下がった。
目下悩みは急激に伸び始めた司の背だった。ニョキニョキとタケノコのように伸びる背はみるみる俺との視線を近づけさせ気づけば一年で十センチは伸びていた。そのため成長痛がひどく合宿でも途中から滑れないときがあって本人は悔し涙を零していた。
そんな時、司が死にそうな顔でやってきた。陸でのトレーニングと柔軟、バレエの基本、表現方法を重点的にやってPCSを伸ばそうと話し合ったばかりの頃だ。
「……辞める?」
「はい、両親から辞めるようにと」
「……金、か」
「はい」
司の家はけっして裕福な家庭ではない。貧乏とまではいかないが四人男兄弟を食わせて高校に大学にと通わせていくには司のフィギュアは容認できないものだった。クラブに入る際に話した時もレッスンはギリギリの最低料金でと契約した。司の覚えが早いことがせめての救いだった。本来ならこんな少ないレッスンで一年でバッジテスト六級はとれないし全日本ノービスで準優勝はとれない。
「なので今シーズン、ノービスAで最後です。そこまではって両親にお願いしました」
「……全日本ジュニアは?」
「……出れないです。両親からしたら今すぐ辞めてほしいみたいなんで」
「司」
「俺も出たいです。みんなが必死になってもぎ取る席なんだから」
でも、と言葉を止めて俯く司から大粒の涙が落ちていく。
「なんで、俺、なのかな」
震える声、震える肩を抱き寄せる。背が伸びたかまだまだ薄く少年の域を出れない体。この体はとても熱い。氷の上に長く乗れるスケートをするために生まれたギフテッド。それなのに残酷にも現実はこの子を氷から降ろす。
「純には伝えたのか」
ふるふると首を横に振る。涙が零れて散っていく。まるで司の心のように。
「言えない、嫌われたくない」
「俺が、ご両親と話しても無理そうか?」
「……すみません」
「謝るな。お前は何一つ悪くないんだから」
一瞬資金を提供しようかという考えがよぎった。それ程までに今ここで司が氷の上を降りることは勿体ない。純もだが司も世界で金メダルを取れるしオリンピックだって夢の話ではないだろう。漠然と純と司が数年後の日本国旗を背負って世界と戦うと思っていた。そして一等に輝く金メダルをふたりのどちらかが取ると。
けれどそれは叶わない。氷の上に絶対はない。これは口酸っぱく司に瞳らに言っている。純のやつは自分の絶対を確信しているから聞きやしないが司たちは理解していた。どんなに練習で跳べても本番で降りないこともあるし怪我はいつどこでも潜んでいる。今回のように第三者からの起因も。
「わかった。必ず全日本ノービスで金を取ろう。お前は唯一夜鷹純に黒星をつけた選手にしてやる」
それがせめてのこいつの師としての役目だ。
司は純に勝って金メダルをとった。そして去って行った。
瞳になんでこんなことになるのと泣かれた。誰よりも氷の上にいることに幸福を感じていた司を先輩として時には姉のように見守ってきた瞳にこの理不尽は飲み込みきれないのだろう。すまんと謝ると余計泣かれた。
「司くんの次につらいのはお父さんなのにごめんなさい」
そんなことない。俺よりもつらいやつがひとりいる。
それは司がいなくなって数ヵ月後にやってきた。
「司はどこです」
「よう、久しぶりに会ったのに挨拶もなしか」
「なんで辞めさせた」
「まるで俺が辞めさせたかのような口振りだな」
久しぶりに名古屋にやってきたかと思えば元コーチに随分な態度だ。低いテノールはまだ背が伸び切ってない幼い体にアンバランスだ。そういえは司は背があれほど伸びたのにまだ声変わりしてなかった。本当に真逆を互いに持つ子たちだと笑うと自身を嗤われたと思ったのか太い眉毛をキッと吊り上げて俺を睨みつけた。
「僕を馬鹿にしているのか……司はどこです」
「辞めたのを知ってるならここにはいないことはわかるだろ」
「……理由は」
「わかるだろ?」
「チッ……あの親か」
「資金面で辞めることはよくあることだ」
「そうやって自分に言い聞かせたんですか。引き止めきれないと。そんなもの子供を守りきれない、責任をとれない大人の逃げだ」
「お前なぁ」
本当に可愛くないガキだ。司と仲良くなって少しは良くなったと思ったが司がいなくなって逆戻り。これは福岡の布袋野さんも手を焼いただろうしロシアの名の知らないコーチに同情する。今日だって名古屋に来る予定はなかっただろうに無理矢理もしくは同行者を撒いてここに来たのかもしれない。
「会いたい。司の家教えて」
「……会ってどうする」
「氷上に引きずり戻す。あの子は僕と氷の上で生きるって決めた。僕のだ」
まるで司が自分の所有物のような言い方だ。こいつのこの傲慢なところを人は王や神のように思うのかもしれないが俺からしたら甘やかされたガキと同じ。なにが王子様だよ司。ただのわがままのクソガキだよ。
「お金が無いなら僕が出す」
「それを司が素直に受け取るか?そう思っているならお前はなにひとつ司のことを理解してやれてないな」
「……わかってる、そんなこと」
誰かに資金を援助して貰いそれで続けようとするならとっくに俺が出していた。でも司は優しい子で誰よりも気遣いができる子だ。いや正確にはそうならざる得なかった子だ。四人兄弟の二番目。年の離れた弟と共働きの両親。いつだって司は周りの目を見て空気を読んで役割を演じてきた。親の顔色を伺い弟たちに強く出れず唯一司を庇っていた兄にも恐縮しているような子供。そんな子が氷の上だと純と同じぐらいに我が強くなって頑固者になった。そんな子がもうこれ以上傷つきたくないと手放したんだ。
「だからせめて有終の美を飾らせたんだ。お前に唯一黒星をつけた選手としてお前が勝ち続ける度に司の名前は残るだろうな」
「……そんなもの司は満足しない」
「そうだな」
司が欲しかったのは純から奪う金メダルじゃない。氷の上で生きる許しだ。
「あいつが欲しかった言葉を俺はあげられなかった」
ここにいていいんだと言ってやれなかった。よくある現実を知っていたから、大人で何度も飲み込んでいたから。
「でもな俺はあいつが諦めきれるとは思えない」
「どういう意味です」
「お前の望む形じゃないかもしれないけどな」
最後に司にかけた言葉はもしまだ滑りたいと思うならと続けたものだ。
『大人になって働いて資金を貯めろ。シングルの全盛期は二十代前半だがアイスダンスならまだチャンスはある』
『アイスダンス……』
『お前がなりたいものじゃないのはわかってる。だがシングル引退後アイスダンスに転向する選手は少なくない。何年も経ってそれでも諦めきれなかったらここに来い』
「純、お前は司になにを言ってやれる?」
「……帰ります」
「司には」
「会わない。今会えば僕は彼にひどいことを言うし攫って僕のそばにいさせてしまう」
「……警察の世話になるようなことはやめてくれ」
「わかってます」
まっすぐ見据える金眼は獲物を狙う猛禽類そのものだ。司は照れくさそうに『純くんは王子様』と言っていたがこんなギラギラした王子様がいるかよ。魔王だよ。執着の強い、な。
年下の友人、夜鷹純は昔から気難しい子だった。
彼の両親と僕の両親は大学時代からの友人で互いの結婚式の友人代表として出席し合い年に一、二度は旅行をするほどの仲の良さだった。だから子供がもし互いにできて男女だったら許嫁にしてもいいかもねなんて笑いあったのだという。
けれど夜鷹夫婦にはなかなか子宝が恵まれず流産を数度繰り返したあと生まれた純くんは夫婦にとって何事にも変え難い宝だった。だからか純くんは大事に大事に育てられ癇癪をなにひとつ矯正されず愛され甘やかされて育った。それ故に彼はちょっとばかり人と接するのに難がある子になってしまい兄のように接していた僕はそんな彼にちょっと困らされていたのが実際だ。
「それで司くんに会いに行かなかったんだ?」
「……」
無言。突然僕の家にやってきて勝手知ったる鴗鳥家の家にチャイムを鳴らすことなく入ってきて僕の部屋にノックも無しに入ってきた。試験勉強していた僕は集中するためにヘッドホンで音楽を聴いていたからそれをいきなり奪われて本当にビックリしたのに当の本人は僕のヘッドホンを投げ捨てた。物に当たったらダメだと言うとクッションを投げられ僕のベッドを占拠してのふて寝。なんていうことでしょうか。夜鷹のおじさま、おばさま。あなたたちの宝物はとってもワガママです。困ります。どうにかしてくださいと思うがきっとあのふたりは叱れないだろう。はぁとため息をついて不機嫌な背中に問いかけた「司くんのこと?」と。
「……司は僕を捨てた」
「そんな言い方よくないよ。彼だって辞めたくて辞めたわけじゃない」
「じゃあなんで僕に何も言わない!?」
バンッと僕の枕を壁に投げた。やーめーてー。振動で棚に飾っていたBLUE BIRDが床に転がり落ちて可哀想だ。
「司くんだって言いにくいこともあるよ。君だってルクスから移籍するときなかなか言い出せなかっただろ?」
「……でも、ちゃんと言った」
お人形のように美しい顔が歪んでイエローダイヤモンドの瞳から涙が零れた。僕の弟は氷の上じゃなくてもこんなに美しい。でも彼には氷の上じゃない自分は無価値と思っていていつも上手くできない人と違う自分を嫌っている。そんな純くんが氷の上じゃなくても笑うようになった。楽しそうに日々を過ごして今日は司くんと何をしたとか司くんが自分のジャンプを見て初めて四回転を跳んだと嬉しそうに話すようになったのだ。僕も僕の両親も夜鷹のおじさまたちも皆、純くんの変わりように驚き喜んだ。
「司は、僕がいらなくなったんだ……氷の上じゃなくてもいいってなったんだ……」
「そんなことないよ」
まだまだ細く薄い肩を抱き寄せる。少しでも落ち着くように背中を撫でるといつもより高い体温に胸が痛い。こんな風に泣くと必ず純くんは次の日熱を出す。きっと明日もそうだろう。熱に魘される彼は酷く可哀想だ。
「会いたい……」
「なら会いに行けばいいよ。住所ぐらいなら高峰先生教えてくれるさ」
「……こわい、司にいらないって言われたら……こわい」
うー、と縮こまって泣き続ける弟分を僕はただただ熱い背中を撫でることしかできなかった。
「やぁ、僕とドーナツでもどうかな?」
「……慎一郎さん」
「久しぶり。少し痩せた?背も伸びたね」
純くんはやはり熱を出してしまって僕のベッドで眠っている。滑りたいとぐずる純くんをなだめて置いてきた。明日には日本を出発してロシアに戻らないといけない。次の帰国は一ヶ月後。それまでに少しは可愛い弟分たちの仲をどうにかしたいと彼の通う中学で待ち伏せた。夏服になっている司くんは前より少し背が伸びて痩せているように見える。あの太陽みたいな明るさなくて、ああ君もなんだねと思った。
とりあえず近くのドーナツ店に入った。僕はクリーム入りのドーナツとアイスティー、司くんはアイスカフェラテを頼んだ。食べないの?と聞くと「おなか空いてないから」と目を逸らして言う。司くんの大好物のドーナツなのに?そういえば痩せているのが気になる。普通は運動しなくなったら太るものなのに。首を傾げながらも会計を済ませて適当な所に座った。
氷がたくさん浮かんだアイスティーをごくりと一口。冷たいアイスティーが喉か潤ってふぅと息を吐いた。体が冷やされる感覚は嫌いじゃない。
「特別強化選手がこんなところで油売ってていいんですか?」
「辞めたのに知ってるんだ?」
「……」
「ごめん、いじわる言うつもりじゃなかったんだ。ただ知られてないと思って」
「ジュナくんがメールで教えてくれて」
「ああそうか。高峰先生の教え子ではもうシングルは彼だけだったね」
選考会には白鳥ジュナくんの姿はなかったが同じシングルのジュニアである彼に情報は全て行く。僕のことも純くんのことも。
「純くん今名古屋にいるよ」
「……っ」
僕だって暇じゃない。今日も練習があるから手短に用事を終えたい。単刀直入にいかせてもらうよ。
「会いたい?」
琥珀色の瞳が揺れる。薄い膜が張って今にも滴となって落ちそうだ。でも、一生懸命落とすまいと司くんは顔を逸らした。
「……会いたくないです」
「どうして?」
「……うそ、ついたから」
「嘘?」
「つぎは、負けないって純くんに全日本ノービスのとき、言われました。でも俺にはもうそのときには次なんてものはなかった」
「全日本ジュニアを棄権したのは足の痛みがひどくなったからって聞いていたけど」
「……ちがう、痛みは確かにあったけど滑れないほどじゃなかった。ただ両親との約束でノービスまでって……っ、おれ、じゅんくんに、いわなきゃ、っておもったけど、言えなかった……」
堪えていたのにやほり涙は耐えきれなくてポタポタと落ちていく。つっかえながらも理由を話してくれる司くんの悲痛な叫びに胸が痛い。
彼はもしもの僕たちだ。僕たちだって親がたまたまフィギュアにお金を使っても許してくれる親だからできたこと。父さんの会社だっていつ不況の煽りを受けて倒産するかわからない。今は健康そのものだけど両親のどちらかが病気になればきっと続けることは困難になるだろう。純くんだってそうだ。才能があっても、本人がやりたいと思っても子供で扶養される僕らは親の都合ひとつで夢を叶えたり夢を諦めなきゃいけなくなる。こればかりはどうにもならない。
「純くんに、嫌われるのだけは、俺の事っ興味ないって、手を離されるのだけはっ、嫌だから」
零れる純粋できれいな涙を拭ってやる。涙で溺れた琥珀が僕を見つめた。同じだ。純くんと司くんはこんなにも育った環境が違うのに同じ瞳をしている。
「ほんと、君たちは変なとこ似てるんだから」
「慎一郎さん?」
「純くん実は今僕の家に居るんだ。……会う?」
麦色の太い眉が八の字に下がる。そして首を振った。手の甲で乱暴に涙を拭ってずび、と鼻を啜った。
「やっぱり会えないです。会っても氷の上に戻れない、もう俺にはガラスの靴スケート靴は無いから」
「……純くんには君が必要だよ。あの子はこのままじゃまた孤独に」
「だったら純くん最強だ」
うっとりと嬉しそうに微笑む顔にゾッする。悲しみで零れた涙が乾かぬうちに浮かんだ笑顔はどうも狂気じみていた。
「俺以外に負けて欲しくない。純くんはきらきらの一番でいてほしいから」
結局司くんはそのまま帰ってしまった。再度、明日にはロシアに行ってしまうよと言ってみたが微かに目を見開いただけで首を横に振ってついてきてはくれなかった。
遠ざかる背中を見つめてもう彼が煌びやかな衣装を着ることは無いのかと残念だ。氷の上で衣装を纏ったシャンと伸びた後ろ姿は夏のひまわりのようで好きだったから。彼の元気で明るい性分とは裏腹に指先まで丁寧な振り付けと正確なブレードの傾き。氷上にいることを全身で喜ぶ姿はジュニアに上がって勝つことメダルをとることばかりで頭がいっぱいになった僕の頭をクリアにしてくれた。原点を思い出させてくれた。
そんな彼の最後のノービスの大会での演技は会場にいる人間全てを魅了していた。
皆が彼にその目を反らせず釘付けにされ頬を染め恋に堕ちていた。でもその恋は燃え上がるような恋でも甘酸っぱい恋でもない。堕落させ全てを奪うそんな恋。初めて司くんを恐ろしく思った。こんなのが来年にはジュニアに上がってきて僕らの立場を揺らがすのかと。
純くんも司くんもジュニア仲間で話題に上がらないときはなかった。だからか司くんがリタイアしたことに胸を痛めつつも安堵する者も多かった。大きな声で言えないけどホッとしたと。純くんだけでもノービスBの頃からその脅威は囁かれており皆あと何年以内に結果を残さないと夜鷹純がやってくると焦っていた。そこに初めて一年そこいらの子が怪物じみた様子で現れたものだから皆顔をヒクつかせていたわけだが。結果脅威が消えて心に余裕ができていた。
僕だってそうだ。
「最低だな僕は」
明浦路司という太陽に灼かれなくてよかった。冷たい夜の月明かりだけで僕は手一杯なのだから。
『拝啓、明浦路司様。秋の冷たい風が吹く今日この頃、貴方はいかがお過ごしでしょうか。体温が高い汗っかきの貴方もさすがに長袖を着ていると思いたいです。
今回このような手紙を突然送り付けられこと大変驚いていることでしょう。慣れない文で勝手が違いますが会って話すことが出来ない分文にしたためたいと思っています。
さてもうすぐ全日本ジュニアです。観覧席のチケットを送ります。今年も金メダルをとります。どうか私を観に来てください。会えずにいた分の私を知ってください。お待ちしております。敬具 夜鷹純』
『拝啓、明浦路司様。夏の暑さが厳しいこの頃いかがお過ごしでしょうか。先日カンカンと照りつける太陽の下まっすぐ太陽に向かって咲く向日葵を見ました。鮮やかな黄色は貴方に似合うと思います。それから頭から向日葵が離れず花屋に向かい向日葵の花を買いました。けれど何故でしょうか切り花となってしまった向日葵はそれほど心を惹かれず枯れてしまうとすぐに捨ててしまいました。
さて世界ジュニアグランプリのシーズンです。グランプリファイナルに出るために私はタイに行かなければ行けません。貴方はパクチーを食べたことはありますか?私はありません。においがキツイと行ったことのある慎一郎くんが言っていました。ご存知の通り私は食事が得意ではありません。今から憂鬱です。貴方ならきっと興味津々であれもこれも目を輝かせて食べるのでしょうね。
チケットを同封しております。飛行機のチケットも同封しておりますので現地にお越しください。貴方に私のスケートを見てもらいたいのです。待ってます。敬具 夜鷹純』
『拝啓、明浦路司様。先日お住まいの名古屋では雪が沢山降ったとニュースで拝見しました、いかがお過ごしでしょうか。風邪など召されてはないですか?貴方は体温が高いせいかすぐ薄着になって風邪を引いてましたね。私はそればかりが気がかりです。
さて前に飛行機のチケットを不躾に送り付けて申し訳ありませんでした。慎一郎くんに子供ひとりで海外には行けないんだよと言われ貴方に無理を強いてしまいましたことを、ここにお詫び申し上げます。今度は国内の大会を引いたので司様もお越しできることでしょう。観覧席のチケットと新幹線のチケットを同封しております。会場で待ってます。 敬具 夜鷹純』
『拝啓、明浦路司様。遅くなりましたが中学御卒業と高校御入学おめでとうございます。私は通信制の高校に進学致しました。またクラブを変えて海外にも行くと思い登校義務のない所を選びました。貴方はどのような学校に進学なされたのでしょうか。制服は学ランですか?ブレザーですか?背はあれから伸びましたか?声変わりはしましたか?私の中の貴方はまた幼さの残る高い少年の声のままです。声変わりした貴方の声を知りません。もし声をかけられても貴方だと気づいて振り向けないかもしれないですね。
全日本ジュニアのチケットを同封しております。貴方に一目会いたいです。 敬具 夜鷹純』
『拝啓、明浦路司様。小春日和が続く日々をいかがお過ごしでしょうか。秋冬でも暖かい日差しが注ぐ日のことは小春日和と言うらしいです。
今私は香川の梟木先生のクラブに所属しております。貴方は四国に行ったことはありますか?私は恥ずかしながら学が無いもので四国四県の県名があやふやです。四国が本州と繋がってないことを知りいささか恥をかきました。慎一郎くんにスケートばかりではダメだよと言われた意味をようやく理解しました。貴方は本を読むのが好きでしたね。きっと私と違っていろんなことを知っているのでしょう。昔に一緒に宿題したのを思い出しました。またあなたと額を寄せあって話したいです。
全日本ジュニアのチケットを同封しております。SPもFSも新プログラムです。是非会場で見てください。敬具 夜鷹純』
『拝啓、明浦路司様。暦の上では立秋とはいいますが名ばかりで熱い日々がまだ続きますこの頃、いかがお過ごしでしょうか。連日台風が本州を直撃していますね。貴方の住む所は大丈夫でしょうか。決して川を見に行ってはいけませんよ。貴方は変なところで高揚して無茶をするのでとても心配です。
今年からシニアになりました。変わらず金メダルを取り続けて行きたいと思っています。初めてのシニアの大会には貴方にも来て欲しいです。チケットを同封しております。貴方に見て貰えるよう精一杯の演技を致します。敬具 夜鷹純』
『拝啓、明浦路司様。蒸し暑く寝苦しい夜が続いておりますが、貴方はいかがお過ごしでしょうか。前に向日葵の話をしたのを覚えておいででしょうか?そのとき買った向日葵の種を実は慎一郎くんの家の庭に植えたのですが慎一郎くんは律儀にも毎年種を植えてくれていたようで今年も綺麗なのが咲いたよと写真に撮ってくれました。写真を同封しております。
さて来年はオリンピックです。今年怪我なくシーズンを終えれれば私は冬季オリンピックに出ることとなるでしょう。その前の大事な一戦、是非観に来てください。お待ちしております。敬具 夜鷹純』
『拝啓、明浦路司様。今年は秋らしい秋ですね、肌を撫でる風が涼やかで歩いていると目をつぶって風を感じています。貴方にとっても過ごしやすい季節になってきたことでしょう。
成人おめでとうございます。もうお酒は飲まれましたか?貴方はお酒に強いのでしょうか?それとも弱いのでしょうか?あまり飲みすぎたりしないようお気をつけください。
今年はオリンピックイヤーです。日の丸旗を背負い行ってまいります。ついては貴方にも来ていただきたい。もう子供ではないのだから海外でも来ることは可能ですよね?観覧席と飛行機のチケットを同封します。
司、君に会いたい。
僕の◼◼を見に来て。
敬具 夜鷹純』
──孤独だった。
氷を削る音、頬に当たる冷たい衝動、痛みで感覚がない僕の両足、高速で駆け抜けて行く世界。
眩しいライトに顔をしかめるとその先に彼がいた。
──ああ、やっと君が僕を見た。
ずっとあれからずっと何年も焦がれていたのに。
君に言いたいこといっぱいあったのに。
大人になった君は知らない君で。
あの頃の瞬きの一瞬の思い出は随分美しくなってしまっていた。
──やっと君に会えたのに、どうしてこんなに。
寒くて仕方ないのだろうか。