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夜も更け、
ルシアン邸の執務室にはまだ灯りが残っていた。
机の上には積み上がる書類と、
ほとんど手をつけていないワインの瓶。
扉が静かに開き、
エリアスが顔をのぞかせる。
「……まだ起きてると思ったよ」
「お前こそ。
仕事を終えたなら帰ればいいものを」
「帰る気にはならなくてな。
今日は泊まらせてもらう」
「勝手にしろ」
ルシアンが書類を閉じると、
エリアスはその向かいに腰を下ろした。
「おいおい、公爵様。
こんな時間まで書類とにらめっこか?
顔がますます険しくなってるぞ」
「余計なお世話だ」
「そう言うと思った」
エリアスは笑いながら、
机の上のグラスを二つに注いだ。
「ほら、仕事の話はやめよう。
……で?最近の“彼女”はどうだ?」
ルシアンの手が止まる。
「……彼女?」
「とぼけるな。
イチだよ」
ルシアンはグラスを手に取り、
しばらく沈黙した。
「順調だ。
セリーヌもよく世話をしてくれている」
「世話、ねぇ。
お前も十分にしてるだろ。
仕事中に“微笑んでた”って噂、もう文官たちの間じゃ広まってるぞ」
「……くだらん噂だ」
「くだらん? あの氷の公爵が笑ったんだぞ?
それだけで城が半分凍結解除だ」
エリアスは肩をすくめて笑う。
だが、その笑みにはほんの少し優しさがあった。
「……いいことじゃないか。
人間らしくなったってことだ」
「俺が人間じゃなかったとでも?」
「違う。
“人として生きる余裕がなかった”んだよ、お前は」
ルシアンは視線を落とし、
グラスの中の赤い液体を見つめた。
「……あの子を見てると、
ふと、時間が止まるんだ。
何も考えずに済む。
ただ――見ていたいと思う。」
「ほう……ずいぶん詩的なことを言うじゃないか、公爵様」
「お前は黙って飲んでろ」
「いやぁ、恋は人を変えるって本当だな」
「……恋?」
ルシアンの眉がわずかに動く。
「違う。
ただ、あの子を見てると……放っておけないだけだ」
「それを世間では恋って言うんだよ」
エリアスは笑いながらワインをあおる。
ルシアンはため息をつき、
視線を窓へ向けた。
外では風が静かに吹き、
庭の灯りが小さく揺れている。
「……俺が何を感じてるのか、
自分でもわからん」
「なら、それでいい。
わかる頃にはもう手遅れってのが恋だからな」
ルシアンはその言葉に苦笑した。
「……やれやれ、
人の心を研究する伯爵様はいつも口が悪い」
「お前が素直じゃないだけさ」
グラスの音が重なり、
部屋の空気が少しやわらぐ。
ふたりの間に流れるのは、
長い友情と、
互いの弱さを許し合う静けさ。
窓の外には、月が雲間から顔を出していた。
ルシアンはその光を見上げながら、
小さく呟いた。
「……もしあの子がもう一度笑えたら、
俺も少しは変われるのかもしれないな。」
エリアスはその横顔を見つめ、
静かに笑った。
「もう変わり始めてるさ。
お前の顔が、それを物語ってる。」