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りた ~伝説のちくわ~
800
ちょぼぴー
朝靄の残る庭を渡って、
ルシアンは屋敷の中を静かに歩いていた。
帝都に向かう前の慌ただしい朝。
いつもなら執務の確認に追われる時間――
けれど今、彼の足は自然と一つの部屋を目指していた。
扉の前に立つと、
中から微かな衣擦れの音が聞こえた。
「……イチ?」
返事はない。
けれど、その静けさが彼女らしかった。
そっと扉を開ける。
朝の光がレースのカーテンを透かし、
淡い色の影を床に落としている。
窓辺には、
新しい服に着替えたイチが立っていた。
外の庭を眺めていたのだろう。
振り返ったその瞳が、
ルシアンを見つける。
「……」
一瞬、表情が柔らぐ。
声は出せない。
それでも、
“来てくれた”という想いがはっきりと伝わった。
ルシアンは思わず微笑む。
「今日も、もう起きてたのか。
……相変わらず早いな。」
イチは軽くうなずき、
小さく両手を胸の前で重ねた。
まるで「あなたも早いですね」と返すように。
ルシアンはその仕草に、
ふっと笑みをこぼした。
「帝都へ向かう前に、顔を見に来た。
……なんだか、こうしないと落ち着かなくてな。」
イチの目が丸くなる。
“日課”という言葉の意味はわからなくても、
その声の響きに、心がほんのりあたたまる。
彼女は一歩、近づいた。
ルシアンは少しだけ驚いたようにまばたきをしたが、
すぐに穏やかに目を細めた。
「……今日も似合ってる。」
その言葉に、イチはそっと髪の先を指で触れる。
リボンがきらりと光った。
けれど、次の瞬間――
胸の奥がずきりと痛む。
声を出せないこと。
想いを伝えられないこと。
「……っ」
喉の奥が熱を持つような、
焦燥にも似た感情が込み上げる。
それは“憤り”と呼ぶにはあまりにも幼い感情だった。
ただ――“もどかしい”ということだけは、わかった。
ルシアンはその小さな変化に気づいた。
表情の揺らぎ。
指先の震え。
彼は静かに言葉を落とした。
「無理に話そうとしなくていい。
……お前の顔を見れば、伝わるから。」
その一言で、
イチの目にふっと光が戻る。
不思議と胸の痛みが薄れていった。
言葉がなくても――
想いは届く。
そう信じた瞬間、
イチの唇がかすかに動いた。
――ありがとう。
声にはならない。
けれど確かに、その言葉が空気の中に残った。
ルシアンは優しく頷いた。
「……行ってくる。」
イチは小さく手を振る。
扉を出たあと、
ルシアンはしばらく廊下で立ち止まった。
背中にまだ、
彼女のまなざしの余韻が残っていた。
(……どうしてだろうな。
あの子の視線を感じると、
不思議と前を向ける。)
そう思いながら、
彼は帝都へ向かうために歩き出した。
朝の光が廊下を満たし、
新しい一日が始まろうとしていた。
________
扉が閉まる音が、静かに響いた。
イチはしばらくその音を聞いていた。
音が遠ざかり、屋敷の中に再び静けさが戻る。
カーテンの隙間から差す光が、
彼の背中を追いかけるように床を照らしていた。
イチは窓辺へ歩み寄る。
中庭の向こう、馬車が小さく動くのが見えた。
風が吹き、髪が揺れる。
指先でそっと、彼にもらった髪飾りに触れた。
(……いってらっしゃい)
声にはならない。
けれど、その想いは確かに胸の奥で形を持っていた。
そのまましばらく、イチは窓辺に立っていた。
外の風、遠くの鳥の声、
すべてがどこか新しく感じられる。
――ひとりで過ごす朝が、こんなにも静かだったなんて。
やがてセリーヌが部屋を訪れ、
朝の支度を手伝おうと声をかける。
イチは振り返り、
いつものように小さくうなずいた。
けれど、その仕草の奥に、
昨日までにはなかった“温度”があった。
ルシアンの背を見送った朝。
イチの中で、なにかが少しだけ動き始めていた。
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