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朝靄の残る庭を渡って、
ルシアンは屋敷の中を静かに歩いていた。
帝都に向かう前の慌ただしい朝。
いつもなら執務の確認に追われる時間――
けれど今、彼の足は自然と一つの部屋を目指していた。
扉の前に立つと、
中から微かな衣擦れの音が聞こえた。
「……イチ?」
返事はない。
けれど、その静けさが彼女らしかった。
そっと扉を開ける。
朝の光がレースのカーテンを透かし、
淡い色の影を床に落としている。
窓辺には、
新しい服に着替えたイチが立っていた。
外の庭を眺めていたのだろう。
振り返ったその瞳が、
ルシアンを見つける。
「……」
一瞬、表情が柔らぐ。
声は出せない。
それでも、
“来てくれた”という想いがはっきりと伝わった。
ルシアンは思わず微笑む。
「今日も、もう起きてたのか。
……相変わらず早いな。」
イチは軽くうなずき、
小さく両手を胸の前で重ねた。
まるで「あなたも早いですね」と返すように。
ルシアンはその仕草に、
ふっと笑みをこぼした。
「帝都へ向かう前に、顔を見に来た。
……なんだか、こうしないと落ち着かなくてな。」
イチの目が丸くなる。
“日課”という言葉の意味はわからなくても、
その声の響きに、心がほんのりあたたまる。
彼女は一歩、近づいた。
ルシアンは少しだけ驚いたようにまばたきをしたが、
すぐに穏やかに目を細めた。
「……今日も似合ってる。」
その言葉に、イチはそっと髪の先を指で触れる。
リボンがきらりと光った。
けれど、次の瞬間――
胸の奥がずきりと痛む。
声を出せないこと。
想いを伝えられないこと。
「……っ」
喉の奥が熱を持つような、
焦燥にも似た感情が込み上げる。
それは“憤り”と呼ぶにはあまりにも幼い感情だった。
ただ――“もどかしい”ということだけは、わかった。
ルシアンはその小さな変化に気づいた。
表情の揺らぎ。
指先の震え。
彼は静かに言葉を落とした。
「無理に話そうとしなくていい。
……お前の顔を見れば、伝わるから。」
その一言で、
イチの目にふっと光が戻る。
不思議と胸の痛みが薄れていった。
言葉がなくても――
想いは届く。
そう信じた瞬間、
イチの唇がかすかに動いた。
――ありがとう。
声にはならない。
けれど確かに、その言葉が空気の中に残った。
ルシアンは優しく頷いた。
「……行ってくる。」
イチは小さく手を振る。
扉を出たあと、
ルシアンはしばらく廊下で立ち止まった。
背中にまだ、
彼女のまなざしの余韻が残っていた。
(……どうしてだろうな。
あの子の視線を感じると、
不思議と前を向ける。)
そう思いながら、
彼は帝都へ向かうために歩き出した。
朝の光が廊下を満たし、
新しい一日が始まろうとしていた。
________
扉が閉まる音が、静かに響いた。
イチはしばらくその音を聞いていた。
音が遠ざかり、屋敷の中に再び静けさが戻る。
カーテンの隙間から差す光が、
彼の背中を追いかけるように床を照らしていた。
イチは窓辺へ歩み寄る。
中庭の向こう、馬車が小さく動くのが見えた。
風が吹き、髪が揺れる。
指先でそっと、彼にもらった髪飾りに触れた。
(……いってらっしゃい)
声にはならない。
けれど、その想いは確かに胸の奥で形を持っていた。
そのまましばらく、イチは窓辺に立っていた。
外の風、遠くの鳥の声、
すべてがどこか新しく感じられる。
――ひとりで過ごす朝が、こんなにも静かだったなんて。
やがてセリーヌが部屋を訪れ、
朝の支度を手伝おうと声をかける。
イチは振り返り、
いつものように小さくうなずいた。
けれど、その仕草の奥に、
昨日までにはなかった“温度”があった。
ルシアンの背を見送った朝。
イチの中で、なにかが少しだけ動き始めていた。