テラーノベル
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花桜月華
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今まででいちばん胸糞な話です。
後編はまた後日。
ただ、少し油断しただけだった。
「?!」
口元に当てられたのは白い布。
「んっ……!」
鼻を突くような甘ったるい匂いが肺へ流れ込む。
咄嗟に相手の腕を掴み、引き剥がそうと力を込める。しかし相手はびくともしない。
息を止めようとしても、一瞬吸い込んでしまった薬が頭をぼんやりと霞ませていく。体の力が抜け、視界が、霞む。
「は…な………し……て…」
自分の声が、ひどく遠く聞こえる。指先から力が抜けていく。視界は白く滲み、相手の顔さえ輪郭しか分からない。ああ、もうダメだ。膝が崩れ、誰かに支えられる感覚だけを最後に、世界はゆっくりと闇へ沈んだ。
「……?」
次に目が覚めた時、目に入ったのは見覚えのない天井だった。
「おはよう、アナベル」
ふと隣から知らない声がして、そちらを向く。そこに居たのは、見覚えのない男。
「気分はどう?なにか欲しいものはある?」
まるで、それが当たり前かのような口調。
「……あ、貴方…誰よ…」
あのよく分からない白い布のせいか、未だ頭が回らないし、声も上手く出ない。
「…ふふ、忘れちゃったのかな。でも、今はそのままでいいよ」
何を言っているのか分からない。
「何を…言ってるの…」
上半身を起こそうとしたその瞬間、頭がずきりと痛む。
「無理しなくていい。まだ薬が残ってるから」
目の前の男はそう穏やかに微笑みながら、枕元のコップを手に取った。
「ほら、お水」
「……っ要らない」
差し出されたコップを睨みつける。知らない相手から…しかも拉致犯から渡されたものなんて飲めるわけがない。
「警戒されちゃったか」
困ったように笑うだけで、怒りもしない。
「でも大丈夫。私は君を傷つけたりしないさ」
「……なら、早くここから出して」
男は一瞬だけ黙った。笑顔は消えない。それなのに、瞳だけがすっと冷え切る。
「それは許さない」
穏やかな声。怒っているわけでもない。ただ、それだけは絶対に認められない、と告げるような声音だった。
「君はまた、あの人たちの所へ帰ろうとする。そしてまた傷つく、また利用される、また無理をする………そんな未来、私は見たくない」
「何を…言ってるの…」
恐怖で身体が震える。さっきまで、まだいくばくかはマシで、怖くなかったのに。
「大丈夫。全部全部、忘れさせてあげる。辛いことも、苦しかったことも、あの人たちのことも」
ベッドの縁に腰掛けながら、こちらをじっと見つめてくる。異様に光る、青い瞳は、なんだか気味が悪いと思うと同時に……見つめられていると少し、心地よく感じる。
「君はもう、何も頑張らなくていい。私だけを見ていたらいい。私だけを……覚えていたらいい」
頬に手を添えられても、何も感じなかった。
彼だけを見えいればいい。…そうすれば、もう苦しまなくていい。頑張らなくていい。怖がらなくていい。ああ、そうだ。それが、私の“シアワセ”なんだ。
「…あなた…は……だれ…?」
頭がぼんやりして、何も思い出せなくて。
「ふふ、私はアーノルド。アーノルド・ブライアンさ。君は私を忘れてしまっただけ。すぐ思い出せるよ。」
忘れてしまった人…。
「あー……のる…ど……アーノルド……」
舌の上で転がすように、その名前を繰り返す。不思議だった。初めて聞いたはずなのに。どうしてこんなに、安心するんだろう。
「そう…私はアーノルド。さあ、アナベル、おいで。大丈夫だから」
そう手招きされて、その手に答えるように私は彼に近寄る。すると、すぐに身体の力が抜けて、彼の胸の中に倒れ込んだ。
「…おや、まだ薬が抜け切っていないんだね……でも大丈夫……すぐに良くなるさ……」
背中を撫でられて、安心して、彼の腕に全部全部委ねて。気づけば、自分からその温もりを求めるように身体が傾いていた。
「後で水を飲んで着替えよう…その服のままじゃ動きにくいからね」
「……ええ」
自然と返事が口をついた。どうして返事したのかは分からない。でも、理由なんて考えなくても良かった。考えるのはきっと、彼がしてくれる。私は、彼の言葉に従えば、それでいい。
____________________
「アナベルが、帰ってこない」
そう独り言のように口をついて出たのは、もう夜の七時を回ってからだった。彼女が家を出たのは夕方の五時辺り……もう二時間も帰ってこない。
「心配性なだけかなぁ……たかが二時間…されど二時間……」
任務が長引くことは、もちろんある。でもその時は必ず一言連絡を入れる。
“ちょっと遅くなるわ”
たったそれだけでも、彼女は欠かしたことがなかった。……今日は、それすらない。
「う〜〜ん……心配だぁ!!」
本当に自分でも、悪い癖だと思う。すぐに心配して迎えに行くのだから。なんにもなければ安心だけど、何かあったら…事故にでもあったら…もしも怪我して動けなくなってたら……なんて悪い想像ばかりしていてもたってもいられなくなる。
そんな自分を責めながら家を飛び出した。七時を回れば外は暗くて、視界が悪い。今日の彼女の任務場所まで、走る。
「お願いだから…何もありませんように!」
そんな願いは、夜の闇へと吸い込まれていった。
「いない……血痕もない。戦った跡だけしか…」
彼女の任務場所までたどり着いたが、誰もいない…いや、誰かいた痕跡はあるが、今は誰もいない。
「一体どこへ——」
「おい」
ふと、後ろから声がし、すぐさま振り返る。念の為、銃を手に持ったまま。
「っ誰だ!」
後ろにいたのは、見知らぬフードを被った男。
「待て待て、戦う気はねえよ」
相手に向けていた銃を降ろす。
「お前、見た感じさっきの女の仲間だろ?」
「さっきの女って…まさか、緑の髪の?!」
もしかしたら、この人は何か知っているのかもしれない。
「あぁ、緑髪で、身長はこのくらいの……碧眼の男に抱えられてた」
碧眼の男…よくいる特徴だ。それだけでは特定には至らない。
「あとは……確か茶髪…黒いカーディガンみたいなのを羽織ってた気がするぜ」
服装とか髪色、瞳の色…そして活動地域がこれでわかった。少しは特定に近づける。
「ありがとう!助かったよ!」
「おう。お前も女だろうし、気をつけろよ」
…?今目の前の人はなんと言ったのだろう。僕が…女?
「え…いやまっ——」
「この辺りは最近治安わりぃからな」
「いやだから、」
「気を付けるだけ無駄にゃならんだろ」
「ちょっと待ってくれ!!」
男はようやく口を閉じ、怪訝そうにこちらを見た。
「勘違いしてるようだけど、僕は女じゃない!れっきとした男だ!」
慌ててそう訂正する。僕の見た目は…そんなにも女性に見えるのだろうか…。
「あれ…まじか。紛らわしい見た目と声してやがるから間違えちまった。悪いな」
僕の!見た目と!声は!そんなにも!女性らしいのだろうか!と、叫びたくなってしまう。
「い…いや、いいよ……情報ありがとう…」
今度、アナベルに髪を整えてもらおう…女性に間違えられないように…。
「お、おう……まあ、男でも気をつけろよな…」
相手方も気まずそうにそう言ってくる。もう、これは早くどこかへ行った方が良さそうだ。
「…なんとなく、情報が掴めてきた……」
少し……いや、かなり違法な手段を使ったことは秘密だ。後で怒られるだろうけど、そんなことを気にしている場合じゃない。
活動地域、茶髪、碧眼、黒いカーディガン。それだけじゃ決め手には欠ける。でも、街中の監視記録や住民の証言を繋ぎ合わせれば、候補はぐっと絞られる。
「……この辺りを拠点にしてる男なんて、そう何人もいない…」
端末に映る地図へ視線を落とす。赤い印がひとつ、またひとつと消えていき、最後に残った場所は郊外のひとつの教会。
「ここ…か……?」
人気のない、森に囲まれた廃教会。隠れ家としては申し分ない立地だ。
「……アナベル」
無意識にその名前を呼ぶ。返事が返ってくるはずもない。それでも、胸の奥が締め付けられる。
「…頼む…無事でいてくれ…!」
拳を握りしめる。もし本当にそこにいるなら、一秒でも早く助け出さなければならない。
「……カトラー……この辺りの生命力反応…二人くらい引っかかったよ…」
通信機から聞こえる、仲間である少女の声。
「本当かい?!」
思わず身を乗り出すように返すと、相手は少しだけ間を置いてから「うん」と短く返事をした。
「…一人は普通の反応……もう一人は…少し弱い…薬でも盛られてるのか…眠ってるだけなのか……そこまで詳しくは分からないけど……」
胸がざわつく。
「……アナベルだ」
確証なんてない。それでも、そう信じるしかなかった。
「…場所は森の奥の廃教会……今から地図送る……気をつけて、あんまり、いい場所じゃなさそうだから……」
「ああ、わかっているよ。ありがとう、“アメノツキ”」
呼び慣れた仲間の名前を呼ぶ。
「…何かあったら呼んでね…ボクのこと……すぐ駆けつけるから…」
そう言って通信を切る。そして僕は、森の中へ駆け出した。
コメント
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リオンです、読みました。第8話、これは…かなり重いですね。 白い布での拉致から、アーノルドによる洗脳じみた会話の流れ。とくに「私だけを覚えていたらいい」という台詞が、優しさのふりをした確かな支配で、背筋が冷えました。後半でカトラーの視点に切り替わる構成もいい。女性に間違えられるギャップが、この緊張感の中で微妙な息抜きになってます。 アナベルがどこまで記憶を奪われているのか、アーノルドの目的は何なのか…続きが気になります。後編、待ってますね。