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落ち着かない気持ちのままタクシーの会計を済ませ、玄関の鍵をバックから取り出そうとしたのだけど。私が玄関の前で立ち止まったピッタリのタイミングでドアが開いて、驚きで息が止まるかと思った。
「おかえり、雫」
「あ、岳紘さん……」
いつもは私が彼の帰りを待つばかりで、こうして出迎えられたことなど初めてだった。何度か私が外出して遅くなっても、岳紘さんはリビングで座っているだけだったから。
それでも先に一人で眠っていないのが彼の優しさなのだと、ずっと自分に言い聞かせてきたのに。
「どうして?」
「……疲れただろう、風呂を沸かしておいたから入ると良い」
意味が分からない、岳紘さんも自分自身も。
コーヒーの詰め替えのために急いで帰ってくる必要はないのに、こうして戻ってきてしまう私。あんなルールを決めておいて、今になって妻を思いやるような言葉をかける目の前の夫。何もかもがおかしいのに……
「ありがとう、そうさせてもらうわね」
中途半端に優しくされる方が辛いのだと、言ってしまえば楽になれるのかもしれない。岳紘さんへの想いを今も抱いたままの私は、それでも彼の一瞬の優しさを撥ねつけることさえ出来ないでいる。
こうして思い遣る態度を見せながらも、彼は私が他の男性と繋がることを望んでいるのかと考えればどうしようもなく胸が苦しくて……
「そうだわ、コーヒーの詰め替えを」
「そんなのはいいから、先に体を温めておいで」
そう言う岳紘さんから、いつになく強引にそのまま浴室へと押し込まれてしまったのだった。
岳紘さんの態度に違和感を感じながらも、面と向かって「どうしたの?」と聞く勇気はなくて。私に気持ちが無いのならば、中途半端な夫としての対応などして欲しくないのに。
……どうしても、もしかしたらと期待してしまうから。
お酒で火照る身体を少し低温のシャワーで冷やしていく、そうしなければ気持ちが落ち着かない気がして。その間も何度も夫の行動について考えてみたけれど、結局は彼に自分が振り回されるばかりだ。
バスタブにゆっくりと身体を沈めて息を吐くと、それまでの緊張が少し解れていく気がする。爽やかな香りのする乳白色の入浴剤も、岳紘さんが選んで準備してくれていたのだろうか?
「ダメなのに、どう頑張っても彼は私を見てくれないのだから……」
何年も傍にいて、結局は妹という立場にしかなれなかった私。身内に対するような愛情はあっても、岳紘さんのただ一人の女性にはきっと一生なれない。そう、ちゃんと理解しているのに。
それでも優しく「雫」と名前を呼ばれれば心が震えるし、自分を見て欲しいという欲がわいてくる。
「どうしようもないの、本当に」
行き場のない想いと、抑えつけるしかない自身の願いをずっとこの胸に抱いたまま。この温かなお湯の中に入浴剤と同じように溶けてしまえたら、なんて意味のないことをしばらく考えていた。
「何をしているの、岳紘さん」
「ああ、いや……」
お風呂上りにミネラルウォーターを飲もうとキッチンに入ると、なぜかそこに岳紘さんが立っていた。普段は余程のことがなければ彼は台所をうろついたりはしない、だから驚いたのだけど……
彼が何かを身体で隠そうとしているように見えて、岳紘さんに触れないように気を付けながら覗いてみる。
「えっと……何か作っていたの? お腹がすいたのなら言ってくれれば先に作ったのに」
「あ、いや。そういうんじゃなくて」
ガスレンジに置かれた小さなお鍋、湯気が出ているので今何か作っていたのは間違いない。正直、岳紘さんが料理をしたところなど見たことのなかった私はかなり吃驚した。
共働きということもあり、洗濯や掃除は時々手伝ってくれていたが料理だけは手を出そうとはしなかった。それなのに、何故?
「最近、岳紘さんって……」
何か変よ、そう言いかけてやめた。二人の間にあんなルールを作った時点で、彼の中で私たちの関係が今までとは違うものになっているのかもしれないと考えたから。
いつまでも、好きでいるのは自分だけ。そう思うと虚しくなって、冷蔵庫からペットボトルを取り出しそのままキッチンを出ようとする。
「……その、雫は腹が減っていないか?」
「……え?」
正直、少しのお酒は入っているが食事もそこそこに帰ってきたのもあってお腹はすいている。でもこんな時間だし、今日はこのまま休んでしまうつもりだったのだけど……
されるとは思ってもいなかった質問に、私はうっかり素直に「はい」と答えてしまったのだ。
「そうか、ちょうど雑炊が出来上がったところなんだ。少し作りすぎてしまったし、雫も食べるならと思って」
「そう、なの?」
簡単な料理くらいなら岳紘さんが作れることは知っていた。それでも日々の食事の支度は私がするようにしていたから驚いてしまう。
作りすぎてしまったと彼は言っているが、見せてくれたお鍋には二人前以上の雑炊が湯気を立てている。もしかして、最初から私の分も……なんて、思ってしまうのだけど。
「君は疲れているだろうから座っているといい、準備は俺がするから」
「え? そんなわけにはいかないわ、私も……」
そう言ったのだが「いいから!」と岳紘さんにキッチンから追い出されてしまった。普段の夫からは予想も出来ない彼の言動に、私はただ驚いて大人しくリビングのテーブルで食事の準備が終わるのを待っているしかなかった。
「雫の料理ほど美味しくはないだろうけれど、食べられないほどまずいと言うことはないはずだから」
「そんなことないわ、いい香りだし作ってくれて嬉しい。いただきます」
私の作る食事を美味しいと褒めてくれたことは何度かあったけれど、こんな風に言われるとテレる。それを誤魔化すように私は手を合わせ、蓮華で雑炊を掬い口に運んだ。