テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
2件
最高だわこのカップル💚💙
いやん、史上最大のバカップル🤩🤩
「阿部ちゃんなんか、だいきらいだっ!」
興奮した渡辺から飛び出したそのセリフは、はっきり言って子供の口喧嘩よりも劣っていて、冷静なときに思い返せば、なんてくだらないセリフなんだろうと恥ずかしくなること請け合いだった。
「俺だって、翔太なんか、だいっきらいだから」
対する阿部も静かに、けれどきっぱりと言い返してみせた。普段の阿部だったら決して口にはしない言葉。そんなセリフを浴びせられて、渡辺はビックリして目を見張った。そのまん丸の垂れ目に、次第に涙が溜まっていく。
阿部は目を伏せ、部屋の隅の方をじっと見つめていた。彼がもし渡辺を見ていたなら、その泣き出しそうな顔に少しはうろたえたかもしれない。渡辺は瞳に溜まった涙がこぼれてしまうのが嫌で、その前に部屋を飛び出した。
いつの間にか外は、すごい嵐になっていた。夏の終わりの台風は、予測された進路をはずれ、殆ど直撃に近かった。
びしょ濡れになって帰宅する。廊下が濡れるのは嫌だったので玄関ですべての洋服を脱ぎ捨て、パンツ1枚で風呂場へ向かった。
昼間、出かける時にはこんなことになるなんてこれっぽっちも思わなかった。
渡辺が思うに、それは本当にばかばかしい、犬も食わないくだらないケンカだった。
二人で訪れた映画館の中、目的の映画が始まるまでの間に、若い女の子たちを見るたびに渡辺が「見て阿部ちゃん、あの子超可愛いぞ。あ、あっちの子も」などと冗談半分に言ったのが全ての始まりだった。
二人きりで映画、というシチュエーションに少し照れていたせいか、渡辺は黙って待っていることができなかった。どうにも落ち着かなくて、何か喋っていないといけないような気がしたのだ。
阿部は、そんな渡辺に対してしばらくは、静かにしろ、とか、聞こえるだろ、とか言って窘めていたが、渡辺があまりにもしつこいので、しまいには「俺は、あっちの髪の長い子の方がいい」などと自らの意見を差し挟んで対抗した。
そんな阿部の口振りがやけに具体的で真剣に聞こえた渡辺は、気が付けば「じゃあ声掛けてこいよ。阿部ちゃんならきっとみんなついてくるよ」と、可愛げのない言葉を放ってしまっていたのだった。
それからはまるでドミノ倒しのように、何もかもがバタバタと音を立てて崩れていくようだった。一体どこから修復したらいいのか、渡辺には皆目見当もつかないくらいに、二人を包む空気は悪くなる一方だった。
かねてから見たいと楽しみにしていた映画の内容も全く頭に入らなかった。
映画が終わって外へ出ると、辺りは薄暗くなりはじめており、雨こそ降っていなかったが、いつ降り出してもおかしくないくらいに、重く暗くどんよりとした曇り空だった。風まで吹いている。確かに、今は台風の季節だった。昨晩の天気予報では直撃はないと言っていたが、かといって快晴になることもなさそうだった。
二人は一言も言葉を交わすことないまま、とりあえず、あらかじめ予約してあったホテルの一室までやってきた。
渡辺はぽすっ、とソファへ座り込み、阿部がミニバーからミネラルウォーターを取り出して飲んでいるのを黙って目で追った。
阿部はフロントでチェックインを済ませた以外には頑ななまでに一言たりとも声を上げていなかった。
どう考えても、あんな馬鹿な話をした自分の方が100%悪いだろう。
渡辺はもちろん気が付いていたが、それ以上に、どうしてだか阿部の言った「あっちの子がいい」という返答が胸に引っかかっていた。あの時の阿部の言葉が、真っ白な紙の上に落としたインクのように、じわじわと渡辺の心を侵食していた。
自分たちは色んな意味で、周囲に大っぴらに明かせる関係ではない。だからこそ、渡辺は二人きりの時くらいはお互いに二人の関係に肯定的でありたいと思っていた。それなのに、阿部は「あっちの髪の長い子がいい」と言ったのだ。
本来ならここは「女の子なんか見てないで、俺のことを見てよ」とか「あの子たちより翔太の方が魅力的だよ」とか言うべきなんじゃないだろうか。
むしろ、渡辺は常に阿部に対してそういう甘いセリフを求めていた。
ファンやカメラの前ではあざといと言われるくらいアイドルでいるくせに、二人きりになった途端にそんないかにも不器用な“男”になるなんて。ただでさえ秘密の関係なのに、阿部自身の態度がそんな風だったなら、渡辺は一体いつどうやって二人の間にある愛情を感じたらいいのだろうか。
ドミノはまだ終わっていなかったようだった。懲りないで愛情を確かめようとした渡辺の「俺、帰ろうかな…」という呟きに、阿部は「帰れよ」と無愛想に言い放った。そこからは何と言ったのか、正直自分でもよく覚えていない。最終的にお互いを「大嫌いだ」と罵り合って、渡辺はたまらず外へ飛び出し、嵐の中を走って帰ったのだった。
風呂から出て、帰ってきたままの玄関の惨状を片付けながら、渡辺は押し寄せる後悔に唇を噛んだ。
素直に謝るのが良いのだということは百も承知だった。だけど、素直になれないからこそ、こんなケンカをしてしまったのだ。渡辺にとって、素直になる、というそれだけのことが、一体どれだけ大変なことなのか、自分自身が一番よくわかっていた。
見上げた時計の針は、22時を少し回ったところを指していた。
もう何度目だろう、数えきれないくらいこぼした溜息をまた一つ吐き出す。 こんなにも時間が経つのが遅いなんて、耐え難い苦痛だった。
スマホを手にとってディスプレイを確認し、またテーブルの上へ戻す。これも、今夜阿部が何度繰り返したかわからない動作だった。
飛び出したっきり連絡も寄越さない渡辺。
こちらから連絡しろと、謝れとでも言うのだろうか。どう考えたって、悪いのは渡辺の方だった。
渡辺の言葉に、時々真剣に腹が立つ。そんな自分も少し大人げないのかもしれないけれど、こちらの反応を引き出そうとするような、愛情を試すような渡辺の冗談は大嫌いだった。
そんな風にされるたび、まるで自分がどうしようもなく甲斐性なしだと言われているようで、渡辺にはもちろん、自分自身にも腹が立つのだ。
確かに、阿部は口数の多いタイプではないし、感じたことを言葉にするのもあまり得意ではない。そんな自分の性格に、少なからずコンプレックスだって感じていた。そして、渡辺の行為にまざまざと思い知らされるのだ。自分が、恋人一人喜ばせられない、むしろ不安にさせるような不甲斐ない男なんだと。
ああ、いけない。
何だか涙が込み上げてきそうで、阿部は自分の思考をストップさせた。
立ち上がって、深呼吸を繰り返しながらテレビをつけ、無音だった室内へと音を呼び込む。
丁度画面の中ではキャスターが天気を伝えているところだった。かねてから予想されていた台風が進路を大きく外して、ほとんど直撃したと言っている。外出は危険なので控えた方が良いだろうとリポーターが続けた。カーテンを少し開いて窓の外を見ると、思わず目を見張るほどの激しい雨とともに強い風が吹き荒れていた。
「……っ、」
一体、いつから? 来る時には降っていなかったし、ホテルの室内がひどく静かだったので全く気が付かなかった。すぐさま振り返ってニュースの画面へと意識を戻したが、既に天気に関する話題は終わっていた。
渡辺は、この中を帰ったっていうのだろうか。タクシーには乗っただろうか。そもそも、今どこにいるんだろう。無事に家に着いているんだろうか。色々な心配が一気に襲ってくる。テーブルの上のスマホを取り、やはり連絡のきていないことに更に不安が募った。もしかして、連絡しないんじゃなくて、出来ないのだったら。
まさか、渡辺の身に何かあったんじゃないだろうか。どうしよう。あんなことを言ったばっかりに。
阿部は気が付くと、スマホを握り締めたまま、上着を掴んで部屋の外へと飛び出していた。
フロントスタッフが一瞬訝しそうな顔をし、次に心配そうに眉を下げたが、構わずチェックアウトしてロビーを出る。
エントランスからロータリーのひさしを過ぎた途端、横殴りの雨にものの数秒でびしょ濡れになった阿部は、やはりそんなことお構いなしで無我夢中に走り出していた。
翔太、翔太、翔太。走れば走るほど、不安が胸に広がって、そして阿部の背中を押した。もっと、急いで、もっと全力で、もっと速く走らなければ。
嵐の中で全力疾走するなんて、生まれて初めてのことだった。こんなにも胸の奥を突き動かす感情のあることを、阿部はこれまで知らなかったのだ。
いつだってどこか反応が後手に回ってしまう自分。周囲からはそれを可愛がってもらえることが多かったが、渡辺はきっともどかしく感じていたんだろう。阿部はめちゃくちゃになりそうな頭の中で考えた。
何か小さなこと一つでも良いから、こちらからアクションを起こして欲しかったんじゃないだろうか。思えば、話しかけるのだっていつも渡辺の方からだった。別に、甘い言葉や愛が囁けなくたって、阿部の方から渡辺へ声を掛けるだけでも、良かったんじゃないだろうか。それが名前を呼ぶだけだとしたって、それだけで彼は嬉しそうに笑ったに違いない。
ごうごうとうなる風の中で、全身にシャワーみたいな雨粒を浴びながら、阿部はそんなことを考えて、ただ渡辺への愛しさを募らせた。
息を切らせ、ひたすら走る足を休めなかった阿部は、渡辺の家に着くなり、廊下に水溜りを作りながら真っ直ぐにリビングへ進んだ。ドアを開けてすぐに見つけた渡辺の姿にホッと安堵する。
「あ、阿部ちゃん!?」
バタバタと部屋へ押し入ってきた阿部の姿に、渡辺はビックリして、ソファに横たえていた身体を起こした。何と言っていいか口をぱくぱくしていると、頭の天辺からつま先までびしょ濡れの阿部がずかずかやってきて、渡辺の胸に飛び込んでくる。濡れ鼠な恋人の身体を受け止めて、渡辺はただ目を白黒させるしかできなかった。
「翔太っ…、お前っ、帰ってるんだったら、連絡、くらい、しろっ」
心配、しただろ! 上がった息に途切れ途切れになりながら、やっとそれだけ言って、阿部ははあはあ大きく肩を揺らした。濡れた髪から雫が頬を伝って、着ていたずぶ濡れのシャツの襟に染み込んでいく。次第に呼吸が落ち着いてくると、渡辺の胸から規則正しい心臓の音が聞こえてきて、なんだか安心した。
子供のようにその胸に縋りついたまま、阿部はしばらく渡辺の鼓動を聞いた。とくとくとリズミカルに打つその音は、普段よりは少し速いだろう か。
「阿部ちゃんこそ…、こんなに濡れて…大丈夫かよ?」
心配そうに渡辺が言う。それでもどこかバツが悪いのか、語尾にかけてその声は消え入りそうに小さくなった。
やっぱり、連絡出来なかったんじゃなくて、してこなかったんじゃないか、こいつ。そんなセリフももちろん阿部の心の中には浮かんでいたが、それ以上にただ、大袈裟に、渡辺に再び会えた喜びで胸はいっぱいになっていた。
今日の自分たちがしでかしたのは、取るに足らないばかばかしいケンカに違いなかったけれど、半日にも満たない時間を、これほど長く感じたのは、本当に初めてだったから。
思わず、阿部は黙ったままぎゅっと渡辺にしがみついた腕を強くした。その気配に、渡辺の肩が小さくピクリと震える。
「阿部、ちゃん」
名前を呼ばれて顔を上げる。
「阿部ちゃん、あのさ…、純愛、って、見返りを求めない愛らしい」
俺、変なことばっか言って、ごめんな。と、今にも泣きそうな顔で眉を下げた渡辺の頬を親指で撫でながら、阿部は渡辺のことがどうしようもなく愛しくて、思わず目を細めた。
「いいよ、翔太。もう、何も言わなくていいから」
ゆっくりと顔を近付けて、小さく震える柔らかな唇へ、ただ一度、心を込めて大切に口付ける。
阿部は目を閉じて、この合わせた唇から渡辺へと、精一杯の愛情が届けばいいと願った。きっと、なかなか伝わらないのだろうけれど、だったらその度に、こうして口付けしたらいいんじゃないだろうか。そうしたら、渡辺は笑顔を見せてくれるだろうか。
渡辺が言った「純愛」というくすぐったい言葉が心の中でエコーしていた。そしてそれはくるくる回って、身体中に巡っていく。
「翔太好きだよ、お前が、大好きだ」
小さく音を立てて離した阿部の唇から、ごく自然にこぼれ落ちた甘い告白に、一瞬目を丸くした渡辺は次の瞬間、目尻を下げて鼻の頭を赤くして、可愛らしく肩を竦めて、笑ってくれたのだった。