そこは、セピア色にくすんだ場所。
大切な、大切だったはずの、思い出の風景。
赤く染め上げられた教室、黒板を背にして一人の少女が立っていた。
夜空の闇を溶かして作ったような漆黒の髪と、同じぐらいに黒い切れ長の瞳が印象的な少女だった。
彼女の名前は、確か……。
と、ふいに、少女が口を開いた。
「――、――――、――」
ぷっくり可愛らしい紅い唇を開き、少女が何かを言っていた。
――いったい、なにを……?
見たことがある風景。それは、ずっと昔……、そう、確か小学生の時の記憶……。
彼女はなんて言っていたのだろう? いや、そもそも、彼女の名前は……、名前は……。
「……のわ、おい、箕輪っ!」
夢の終わりは、いつだって儚く、唐突だ。
箕輪進は、突然のどなり声に、思わず体をすくませた。
ぼんやりとかすんだ目で、辺りを見回す。と、どうやら、そこは、彼の勤めている会社のオフィスのようだった。
そして、窓を背にするようにして、偉そうに座って自分を呼んでいる人物が一人……。
「俺を無視するとはいい度胸だな、箕輪。お前、いつからそんなに偉くなったんだ?」
高圧的な声を上げているのが自分の上司であると気づいた時、進は慌てて席を立ちあがっていた。
「しっ、失礼しましたっ!」
敬礼でもしてしまいそうなほど、ぴん、と背筋を伸ばし、進は課長のデスクへと駆け寄った。
「いいよなぁ、箕輪。居眠りしててもクビにならないんだからよ。なぁ、いい会社だとお前も思うだろ?」
ねっとりと絡みついてくるような嫌味。それを進は愛想笑いで受け流す。
そもそも、居眠りしてたのは自分のミスだ。たとえ、サービス残業のせいで疲れていようが、取引先のミスで方々を走り回らされようが、就業中に居眠りをしていたのだから、嫌味の一つも言われたって仕方がないではないか。
「それはそうと、箕輪、お前、今月の成績が悪いんじゃないか? 使えねぇなぁ、お前、うちに来て何年目だよ?」
「え、えーっと、確か五年目です」
大学を卒業してすぐに就職した会社は、食品関係の中小企業だった。別に、やりたかった仕事ということではなく、ただ単に内定をもらえたのが、この会社だけだったというだけの話だ。
「ったく、ゆとりは使えんなぁ。これだから、円周率が三のやつは困るんだ」
蛇のような目をいやらしく細めて、課長が愚痴る。
大勢の前でのネチネチとした叱責は明らかにパワハラだと思うのだが、それと戦うのは、はっきり言ってしまえば体力の浪費だ。
だから、進は黙って話を聞き流すことにする。
――それにしても……。
思い出すのは、先ほどの夢の中の少女のことだった。
艶やかな黒髪と、深みのある漆黒の瞳が特徴的なミステリアスな少女。彼女はなにも夢の中の人、というわけではない。ちゃんと実在している人物である。
――『黒魔女』のことを思い出したのは、久しぶりだな。
「……おい、聞いてんのか?」
「へ? あ、はい」
聞き流すにしても、適当が過ぎたらしい。気づけば、課長が、なんとも嫌な笑みを浮かべて、彼の方を見上げていた。
「お前、今、返事したな?」
「へ?」
「聞いてなかった、とは言わんだろうな?」
舌舐めずりしそうなその顔に、進は思わず嫌な予感がした。
「あ、はい、もちろん……」
「じゃあ、契約五件、言われた通りに来週中にとって来いよ?」
「は? 五件って、いや、あの……」
「出来なかったら、クビな。いや、良かった、不良物件の処理ができりゃ、人事部の覚えも良くなるだろうし、万々歳だ」
――そんな馬鹿な!
咄嗟に、助けを求めるように周囲を見回す。けれど、まるで巻き添えを避けるかのように、同僚たちは慌てて眼を逸らした。
どうやら、助けの手は、どこからも伸びないらしい。
世の無情を嘆きつつも、進はそっと溜息を吐いた。
自分が何者にもなれないと気づいたのは、いつのことだっただろうか?
小学生のころは、無邪気に夢を信じられていた気がする。
高校に入ったら甲子園に行くと信じていたし、サッカーのワールドカップに出られると信じていた。オリンピックでメダルを取って、世界チャンプにKO勝ちを収めると、毎日ころころ変わる夢に、胸を躍らせていた。
けれど、無限に広がる無邪気な夢は中学に入る頃には、だいぶ擦り切れてしまっていた。
卒業アルバムに書かれた将来の夢は、つまらなそうな字で書かれた「公務員」だった。
それでも、まだ、後生大事に抱えていた友情も、高校を卒業するころには、すっかり輝きを失っていた。
別に、なにか手ひどい裏切りがあったというわけではない。
ただ、夢からふっと覚めるかのように、キラキラしていた日常は、いつの間にか、ありふれた毎日の繰り返しにとって代わられていた。
地に足がついた、大人になった……。言葉にすれば、たぶんそんなことで、世界中にいくらだってある、ただのモラトリアムの終焉なのだろうけど。
そうして気づいた時には、夢見がちだった少年は、ごく普通のサラリーマンになっていた。
一流ではないが、倒産の心配はなさそうな会社で、特にやりたいわけではなかったが、別に苦手でもない外回りの営業が仕事だ。
上司にいびられはするけれど、夜をはかなむほど不幸でもなく、悲劇にも喜劇にもなりえない中途半端で、平凡極まる人生だ。
人生なんて、しょせんそんなもんだ、と、自分に言い聞かせつつも、時々彼は考える。
例えば、過ぎ去った日の中で、別の選択肢を選んでいたら、まったく違う「今」があったのではないだろうか、と。
もう少し粘り強く野球を続けていたら、プロは無理でも甲子園には行けていたかもしれない。もう少し、真剣に友情をはぐくんでいたら、今だって親友と呼べる人間の一人、二人はいたのではないか、と。
そうして、充実した青春を送っていたなら、もしかしたら、同じ“ありふれた日常”だって、特別なものになり得ていたんじゃないか……。
益体もないことだけど、考えてしまうのだ。
「現実逃避も大概にしろって感じだなぁ……」
苦笑を浮かべ、思わず深いため息を吐く。
忙しい現代では、空想に浸る時間さえ貴重だ。
帰宅途中のサラリーマンたちを追い抜くため、進は足を速めた。
「それより、契約だよな。本当、どうしたもんか……」
五件という契約数は、一か月で取れるかどうかの極めて高いハードルだ。正直、頑張ったからといって、どうにかなるものではない。
それよりは、課長にどう詫びを入れるか考えた方がはるかに建設的なようにさえ思える。
「あーあ、やめちゃうかなぁ、仕事……」
不意に口から出た一言が、思いのほか切実で、愕然とした。
本当に、すべてを投げ出せたらどれだけ楽だろうか……。
しばらくは、のんびりして、嫌な上司の顔を忘れたころに、また別の会社に就職すれば……。
「……なんて思えるぐらい、景気が良ければなぁ。あーあ」
このご時世に、職業選択の自由などあってないようなものだ。できもしないことを妄想してストレスを発散している自分に、苦い嫌悪感を噛みしめる。
「やっぱり、どこかで一杯飲んで帰るか」
酒に逃げるというのは健康的ではないが、飲まなければやっていけない、という時が、社会人には確かにある。
進は、適当にどこか店を探そうと顔を上げた。
ふいに……、びょう、と音を立てて、夜風が吹きつけてきた。その風に乗るようにして、
「箕輪くん……」
自分の名を呼ぶ女性の声が聞こえた。その声は、どこか懐かしさを感じさせるようなセピア色の輝きを帯びていて……。
――誰だ?
思わず、辺りを見まわした進だったが、彼の周りには自分と同じ、疲れたサラリーマンの顔しかなかった。
自分を呼ぶような、知り合いの女性の姿は、どこにも見えない。
「こりゃ、ダメだ。本格的に、疲れてる」
さすがに幻聴まで聞いてしまったら、ヤバい。
酒はやめて、帰って寝よう、と踵を返しかけた進に、再び声がかけられた。
「箕輪進くん、よね?」
慌てて振り返った先には、一人の女性が立っていた。
黒曜石のような美しい瞳と、夜に溶け込むような黒く艶やかな髪……、その髪は夢で見た時とは異なり、短く切りそろえてあったから……、
「黒藤さん……、髪、切ったのか?」
口をついて出た言葉は、なんとも場違いなものになってしまった。
黒藤舞夜。全てを見通すような切れ長の瞳と、どこかミステリアスな空気をまとった美しい少女。進が引っ越す前に通っていた小学校のクラスメイトが、目の前に立っていた。
まるで夢から出てきたかのように、彼女が昔のままに見えたから、思わず、自分もあの頃に戻ってしまったような錯覚を覚える。
けれど、
「ふふ、十五年ぶりに再会したクラスメイトにかける言葉が、それ? 箕輪くんのそういうとこ、変わってないわね」
口元に手を当て、くすくすと笑うその姿で、夢はあっさりと醒めてしまう。
彼女は、こんな風には笑わなかった。小学校時代の彼女は、もっと、超然としていて、気安く人と交わることをしなかった。
だから、彼女のあだ名は、別称と尊崇の入り混じったものだったのだ。その印象的な髪と、瞳の色を取って、「黒魔女」と。
今の彼女は美人だった。けれど、あの頃のような幻想的でミステリアスな魅力は、失われてしまっていた。
今日の彼には、それが少しだけ苦い。彼女もまた、ありふれた“普通の人”になってしまったような、そんな気がしたから。
あまりにも勝手な落胆に内心で苦笑しながら、進は口を開いた。
「久しぶりだね、黒藤さん。どうしたの、こんなところで……」
とりあえず、どこか喫茶店にでも、と誘おうとした彼を呼び止めて、
「申し訳ないのだけど、再会を喜んでいる時間はないの」
黒藤は、言った。
「五年二組のみんながね……、死んだわ」
「……へっ?」
一瞬、なにを言われたのかわからず、進は目を瞬かせた。
「死んだ? えっと、なに、どういうこと?」
戸惑う彼に、ゆっくりと、聞きわけのない子どもに言い聞かせるような口調で、黒藤は続けた。
「信二くんも、譲くんも、香織も、愛菜も、有希も、みんなみんな、一人残らず死んでしまったの。私たち以外ね」
まるで、人を惑わす魔女のような妖艶な声で、彼女は言った。
「いや……、ごめん。意味分かんないんだけど、えっと、それって冗談か何か?」
進の疑問を置き去りに、黒藤は、否……、
「それだけじゃない。近いうちに、たぶん、私とあなたも死ぬわ」
黒魔女は、言うのだった。
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