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儚 (はかな)
#ダーク
649
王の間、寝室からつながるバルコニー。アヴァロニア王国の首都に聳える王城は、今まさに夕闇から夜へと溶けゆく幻想的な刻に包まれていた。
辺境の王国の第一王子、黒曜石のごとき髪と瞳を持つアレクシス様。その逞しい腕に、私、リリア・リリエンタールは深く抱きしめられていた。
「我が愛しのリリア……もう離さない。君のことは私が一生守る。かつてあなたが私にそうしてくれたように」
低く、情熱を孕んだその声に、私は精一杯の微笑みを湛えて応える。
「アレクシス様……。私も約束します。あなたやこの国を傷つける者がいたら、私が許さない」
胸の鼓動が激しく打ち鳴らされる。
(夢のよう。“推し”がこんなに私のことを慈しんでくれるだなんて)
アレクシス様は愛おしさを堪えきれぬように、私の額に柔らかな口づけを落とした。
やがて、彼が静かに魔法の呪文を詠唱する。私を抱き上げたまま、重力から解き放たれるように宙高く浮き上がった。
「きゃっ」
不意の浮遊感に、私は小さく悲鳴を上げる。
「大丈夫だ。絶対にあなたを離すことはないから。目を開けてごらん」
彼の慈愛に満ちた言葉を信じ、私はそっと目を開く。宝石を散りばめたような中世の街並みが、眼下一面に広がっていた。
「これが私たちが治める国だ。大切な民たちが暮らしている」
かまどから立ち上る幾筋もの煙が、人々の平穏な営みを物語っている。
「リリアならその癒しの知識をもって彼らを幸せにできる。私と一緒に治めてくれるな」
私を抱きしめる腕に、切実な力が込められた。
「はい」
私は万感の思いを込めて頷く。
「……いや、今のは照れ隠しだ。本当は私がずっとあなたに傍にいてほしいだけだ」
吐露された本音に、アレクシス様は気恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。私もまた、溢れる幸福感に頬を薔薇色に染める。
(こんなにも真面目で民思いで優しい方なのにーーどうして母后さまはアレクシス様をあれほど冷遇していらっしゃったのか)
(でもこれで一安心。アレクシス様が魔王と怖れられ討伐されるルートも、私が悪女と追放されるルートも、消滅させることができたかしら……)
私は彼に身を委ね、安らぎの中でそっと目を閉じた。
*
まぶたの裏に、遠い記憶が浮かぶ。
現代日本の、無機質な空気が流れる病院。手術室から現れ、手慣れた仕草で手袋を外す一人の女性医師。それが、リリアとして目覚める前の私だった。
一人の女性が、祈るような面持ちで指導医の先生に駆け寄る。
「先生、息子は!?」
「手術は成功しました。これで一安心ですよ」
その一言に、女性は糸が切れたようにその場に崩れ落ちた。
「よかった……先生、本当にありがとうございます!」
その光景を見つめながら、私は自らに誓っていた。
(早く私も初期研修を終えて、人の役に立ちたい。外科や救急もいいけど、一通り回ってみて、やっぱり惹かれるのは精神科かな)
職務を終え、ロッカールームで帰り支度を整えながらスマホを取り出す。
(最近はまってる乙女ゲーム……現代の医学、特に精神医学の知識があれば、私の推しのアレクシス様も魔王にならなくて済むと思うんだよね)
背景には、重厚な中世ヨーロッパ風の宮廷が浮かび上がる。
「辺境のアヴァロニア王国の第一王子アレクシスは、実の母から冷遇されていた」
静謐なナレーションが、残酷な真実を告げる。
「母后は大国である聖カトミアル王国出身。アヴァロニアを野蛮な辺境国と蔑み、アヴァロニア王家の特徴である黒髪を持つアレクシスを忌み嫌った」
母后が、若き日のアレクシス様を冷徹に突き放す光景が脳裏をよぎる。
「ああ、お前は何て醜いのだろう! まるで悪魔のような黒い髪――忌まわしいこと!」
母后の毒を孕んだ声。
「第二王子ジャンは自分によく似た銀髪碧眼。母后はジャンを溺愛している」
(ゲームの中で攻略対象となるのは、正ヒーローであるジャンとその側近の騎士や魔術師、家庭教師。アレクシス様は王太子にもなれず闇堕ちして残虐非道な氷のプリンスに育ち、魔王と呼ばれ、ヒロインである聖女にとって討伐対象になる)
(でも私はアレクシス様が最推し! 夜勤明けにアレクシス様のお姿を拝むと癒される~)
画面を見つめる私の瞳は、熱を帯びて輝いていた。
(これ、隠しルートとかあってアレクシス様を攻略できないかなぁ。しかし、どう考えてもこの母后はカウンセリングが必要でしょ。母子揃ってパーソナリティ症を発症してると思うんだけど。でも診断できたところで、中世ヨーロッパ風世界の中には適切な相談機関もシェルターもないからなぁ)
(せめて傍に理解者がいてくれれば……。この婚約者のリリアってのもアレクシス様に冷たいし)
極度の疲労で意識が朦朧とする中、私は推しへの想いを巡らせ、スマホの画面を見つめたまま横断歩道へと足を踏み出した。
そこへ、猛スピードのトラックが突っ込んで来て――。
白い光が、視界を焼き尽くした。
*
深い闇の底で、私の意識が叫ぶ。
(えっ……私、死んだ? まだ医師になる夢を叶えてないのに!)
ふと意識を浮上させると、私は見知らぬ城の、豪奢な回廊に立ち尽くしていた。背後から、困惑を滲ませたメイドの声が届く。
「どうかされましたか、リリア様。今日は許嫁のアレクシス殿下にご挨拶をされる日ですが」
「ん、リリア……? アレクシス……?」
(どこかで聞いたことのある名前……)
「本当に大丈夫ですか……? お嬢様が殿下のことをいくら嫌っていらっしゃっても、毎月殿下にお会いするのは国王陛下と父君の宰相様との間で決められたことです。どうか我慢なさってくださいませ」
壁面のタペストリーに、ゲームで見覚えのある王家の紋章を見つけ、私は息を呑んだ。
「えっ……私は死んだんじゃ?」
(これってもしかして、ゲームの中に転生したの……?)
「『死んだ』など何を縁起でもないことをおっしゃるのです。それほど殿下にご挨拶するのがお嫌ですか、リリア様?」
メイドの言葉に、私は戦慄と共に己を省みる。鏡に映るその姿は、瑞々しい若さを湛えた二十代前半の令嬢のものだった。
(これは……聖女になりたかったのに、回復魔法の力が足りなくてなれなかったリリア! いらない者同士くっつけられて、アレクシス様の婚約者にされたんだわ!)
濁流のように、リリエンタール伯爵令嬢「リリア」としての記憶が甦る。
(私自身も魔力の強い妹の聖女マリアと比べられ、冷遇されていた。アレクシスとも仲良くなれず、このままだと妹をいじめる悪役令嬢に育ってしまう!)
「今、アレクシス殿下と私は何歳?」
「お二人とも22歳ですが……先ほどからいったいどうされたのですか?」
メイドは怪訝そうに眉を寄せた。
(22歳……なら、まだ間に合うかもしれない! アレクシス様は23歳で流行病にかかり、後遺症で全身に痣が残る。幼い頃から不当な扱いを受けてはいたけど、この痣がきっかけでさらに排斥されることになるのだから!)
私は切迫した様子で王子の居室へと駆け出した。背後でメイドが度肝を抜かれた声を上げる。
「急にどうされたのですか?」
(ゲームの中ではリリアの魔力が少ないため、病を癒すことができなかった。そもそも仲も良くなかったから、たいして心配してなかったし……。でも、今ならまだ……。感染症にかからないように、予防することができるかも!)
アレクシス様の居室。重厚な扉の前で、私は凛として一礼し、内へと声をかけた。扉を守るはずの衛兵の姿すら、そこにはない。
「アレクシス殿下、リリア・リリエンタールが参りました。扉を開けていただけますか?」
付き従う者すらいないその部屋は、アレクシス様自身の手によって内から開かれた。
「どうしたのだ?」
(やばっ、か……格好いい! 推しのお姿を間近で拝めるなんてっ!)
私の心臓が、歓喜に跳ねる。
(いや、萌えてる場合じゃなくて……)
母后から不当なネグレクトを受けている王子の私室は、管理が行き届かず、寝具も床も惨泖たる状態だった。閉ざされた窓が光を遮り、空気は淀みきっている。アレクシス様が、乾いた咳を漏らした。
(まずは換気しないと! カビやダニのアレルギーもあるかもしれない。こんな衛生状態では流行病にかかっても仕方ないわ)
「イヴ、カーテンと窓を開けてちょうだい!」
私の峻厳な命令に、メイドもアレクシス様も等しく驚愕の表情を浮かべた。
「何だ突然? いつも形だけの挨拶を済ませたら早々に帰るお前が、いったいどういう風の吹き回しだ?」
「今までの非礼の数々、どうかお許しください」
私が慈しみを込めて語りかけると、初めて向けられたその温情に、彼は戸惑いの中にも微かな喜びを滲ませた。
(私が来たからにはアレクシス様を病気になんてさせない! そして魔王と呼ばれてしまう未来だって変えてみせるわ!)
「まずは清潔にしましょう。イヴ、部屋の掃除を手伝ってちょうだい。雑巾を持って来て!」
「えっ」
「お嬢様が掃除をされるのですか? お屋敷でもご自身でされたことなどないのに」
「メイドではなくお前がするのか?」
同時に発せられた二人の問い。
「ええ。あと手洗い用の清潔な水も欲しいわ。もしとても強いお酒があったら、それも持って来てちょうだい」
「酒だと? まだ昼間だが……お前が飲むのか?」
「いえ、消毒に……。拭き掃除に使います」
(本当は消毒用のアルコールがあればいいんだけど)
掃除用具を待つ間にも、私は淀みない動作ですべての窓を全開にした。
「まずは少しでも風通しをよくしましょう」
「急にどうしたというのだ? 私が汚いからか?」
自虐的なアレクシス様の言葉。陽光の下に晒された彼の肌や髪は、第一王子のものとは思えぬほど放置されていた。
「部屋が臭いか? ならば、いつものようにすぐ帰ってもいいのだぞ」
「いいえ違います。殿下に少しでも心地よく暮らしていただきたいからでございます」
(推しのために、私ができることをする。回復魔法が使えなくたって、私には医学の知識があるのだから!)
「よせ。私は汚い、黒髪で黒い瞳の魔王なのだ、放っておけ」
(それはきっと、幼い頃からずっと母后様からかけられてきた呪いの言葉……。言葉による不当な心理的支配だわ)
「お前のように金色の美しい髪なら、きっと母も……。いや、なんでもない」
彼は耐えかねたように瞳を潤ませた。
「そのことについては母后様ときちんとお話しする必要があるわ。でも、これだけは言っておきます。あなたは魔王なんかじゃありません! とてもお美しい方です! 髪の色や目の色が何色であっても、美しいものは美しいのです! 金や銀が美しいなんて、誰が決めたのですか?」
アレクシス様が、驚愕に目を見開く。
「殿下の髪も瞳も、まるで黒曜石のように美しいと思います」
私は、震える彼の心に歩み寄った。
「あの……失礼いたします」
「や、やめろ! 近付くな!」
拒もうとする彼の両手を包み、次の瞬間、迷いなく抱きしめた。
幼子に対してするように、背中をトントンと優しく叩く。
「今までの私はきっと殿下にひどいことをたくさんしてきたのでしょう。でも今日からは違います。もう二度とそのような無礼なことはいたしません! あなたを魔王だなんて呼ばせませんから」
その献身的な誓いに、彼は魂を揺さぶられたように、はにかんだ微笑を漏らした。
(こうやって少しずつ、気持ちを解きほぐして差し上げればいい)
その時、静寂を破るように回廊から鋭い声が響いた。
「母后様、ご無礼をいたしました……!」
「あの子は呪われた子なのよ! それを魔力も持たない小娘が……」
恐縮するメイドの声を圧して、傲岸不遜な足音が近づいてくる。
(母后イザベラだ……!)
私はアレクシス様の手を強く握りしめた。
「私は何があっても殿下の味方です」
私は熱を込めて囁き、アレクシス様の節くれだった手を強く握りしめる。
アレクシス様もまた、救いを求めるように私の手を握り返した――。
扉が、勢いよく開かれた――。
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