テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
十日間の平穏は、終わりを告げようとしていた。白い部屋の静寂の中に、金属が擦れ合う冷たい音だけが響く。中也は、かつての個体たちに使い古してきた、あの琥珀色の薬液が満ちた巨大な針管を手に、太宰の寝台の側へと歩み寄った。
太宰は、まだ幼さの残る肢体を揺らしながら、不思議そうに中也を見上げていた。彼女にとって、中也はこの世に生を受けてから今日まで、自分に熱を与え、食事を運び、優しく頭を撫でてくれた唯一の神に等しい存在である。その神が、今は見たこともないほどに冷たく、射貫くような瞳で自分を見つめている。
「……中也? そのお注射、なあに……? なんだか、とっても大きくて、こわいよ……」
太宰は不安げに、中也のシャツの裾を小さな手で握りしめた。この個体は、先代たちに比べても驚くほどに従順で、おとなしい。暴力的な反抗も、毒のある冗談も口にせず、ただ中也の顔色を窺うようにして、その慈愛を求めている。中也はその震える指先を見つめ、一瞬だけ喉の奥に苦い塊が込み上げるのを感じた。
「……動くな、太宰。お前を、本当の意味での収穫個体にするための処置だ。……少し、熱くなるだけだ」
中也は、太宰の細い両手首を寝台の固定具へと誘導した。カチリ、という無機質な音が響き、彼女の自由が奪われる。太宰は初めて向けられた束縛という悪意に、驚いたように目を見開いたが、それでも「中也がすることなら、きっと自分を良くするためのことなのだ」と、必死に自分に言い聞かせているようだった。
中也は躊躇うことなく、彼女の最も柔らかい場所へと、鋭利な針を突き立てた。
「……ひ、あ……、ぁ、……あああ!!」
太宰の背中が、衝撃で弓なりに跳ねた。琥珀色の液が胎内へと侵入し、彼女の清浄な粘膜を強引に焦がしていく。液に含まれる誘発成分は、彼女の卵巣を異常な速度で肥大させ、数時間後には完成された卵へと作り変えるための魔薬である。同時に、その液には中也への依存心を極限まで高め、恐怖を多幸感へとすり替えるための媚薬的な芳香が配合されていた。
「……あ、……熱い、……なか、……ぐるぐる、……するの……っ、中也、……中也ぁ……っ!!」
太宰は脂汗を流し、意識を混濁させながら中也の名を呼び続けた。中也はその乱れた髪を乱暴に、しかしどこか憐れむように撫で、処置が終わるのを待った。彼女の腹部は、液を注ぎ込まれるたびに不自然な脈動を繰り返し、皮膚の下で何かが急速に形を成していく気配を漂わせている。
数時間が経過した頃、太宰の腹部は、数時間前とは比較にならないほどに大きく膨れ上がっていた。それは、まだ小さな彼女の体躯にはあまりにも重く、不釣り合いな膨らみであった。両手で抱えるほどの巨大な卵が、既に五個、彼女の内側で完成されている。
太宰は、虚脱した状態で横たわりながら、重たくなった自分の腹部にそっと手を添えた。彼女の瞳には、先ほどの苦痛への恐怖よりも、自分の体の中に宿った「未知の重み」に対する、底知れない困惑と畏怖が浮かんでいた。
「……中也。……わたしの、おなか、……どうなっちゃったの……? ……なんだか、……とっても、……あったかくて、……なかで、……なにかが、動いてるみたいなの……」
太宰は、震える声で問いかけた。彼女の知能は、まだ自分の身体が「商品」を産み出すための機械に変えられたことを理解していない。ただ、自分の内側に、自分ではない別の命が宿ったという神秘的な感触に、心を支配されていた。
中也は、太宰の潤んだ瞳を見つめ返し、のどまで出かかった残酷な真実を、辛うじて飲み込んだ。
(……それは、数時間後には俺が取り上げ、市場へと出荷されるための金塊だ。……お前の子供でも、家族でもない。ただの、贅沢な食いもんだよ)
そう吐き捨ててしまえば、どれほど楽だっただろうか。だが、中原中也という管理官は、この十日間で彼女が見せた無垢な信頼に、無意識のうちに毒されていた。
「……それは、お前の赤ちゃんだよ。……お前が頑張って、なかで育てたんだ」
中也の口から漏れたのは、最も残酷で、最も甘い嘘であった。
その言葉を聞いた瞬間、太宰の顔に、言葉では言い表せないほどの輝かしい悦びが広がった。
「……赤ちゃん。……わたしの、赤ちゃん……」
太宰は、愛おしそうに、何度も何度も自分の腹部を撫でた。
「……そうなんだ。……なかに、赤ちゃんが、いるんだね。……中也との、赤ちゃん……? ……あ、……動いた。……中也、見て、……今、この子が、……動いたよ……っ!」
太宰はわくわくした表情で、中也の手を引き、自分の腹部へと導いた。殻の感触が、薄い皮膚越しに中也の掌に伝わる。それは命の鼓動などではなく、急速に硬質化していく卵殻の振動に過ぎない。だが、太宰はそれを我が子の産声であるかのように受け取り、幸せそうに頬を染めた。
「……わたし、頑張るよ。……中也が喜んでくれるなら、……この子たちを、……大切に、大切に産むからね。……早く、会いたいな。……中也に似た、可愛い子かな……」
太宰は、未来への希望に胸を膨らませ、まだ見ぬ我が子との対面を夢見て微笑んだ。彼女にとって、この腹の重みは、中也から与えられた「愛」の象徴に他ならなかった。
中也は、その無邪気な笑顔から目を逸らすように、部屋の明かりを落とした。
「……あぁ。……しっかり休め。……明日には、会えるからな」
暗闇の中で、太宰は幸せそうに、自分の膨らんだ腹を抱きしめて眠りについた。
中也は扉の外で、拳を強く握りしめた。
明日、彼女が命懸けで産み落とすその「赤ちゃん」は、彼女が抱くことも、名前を呼ぶことも許されず、冷たい箱に詰められて消えていく。その時、彼女はどんな顔をして自分を見るだろうか。
中也は、十五年を何度も繰り返してきた。数えきれないほどの太宰を見送り、そのたびに心の一部を切り捨ててきたはずだった。だが、このおとなしく、純粋に自分を慕う個体が、自らの腹を撫でながら夢を見ている姿は、彼の乾いた胸の奥に、消えかかっていた苦い疼きを再燃させていた。
「……クソが」
中也は低く吐き捨て、誰もいない廊下を歩き出した。
明日になれば、また血と粘液に塗れた産卵の儀式が始まる。
太宰のわくわくした期待が、絶叫と絶望へと塗り替えられる瞬間まで、あと数時間。
彼は管理官として、その「収穫」を完璧に遂行しなければならない。彼女が自分に寄せる信頼が、深ければ深いほど、その後の裏切りはより濃厚な蜜となって、組織の利益へと変わるのだから。
(続く)
次は、この個体における初めての産卵。産後、意識を失った太宰から卵を奪う中也と、目覚めた後の地獄を描く、第五話へと続きます。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!