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#連載小説
観察者
310
椿
27
最後に残された記録
暗闇の中、私は動けずにいた。
目の前にいる。
絶対にいる。
あの女が。
息を殺していると、すぐ近くから声がした。
『ねえ』
耳元だった。
『お母さんの言うことを聞かなくていいの?』
私は目を閉じた。
『お姉ちゃんも、お兄ちゃんも、助けなくていいの?』
「……やめて」
『あなたが逃げたら、みんな死んじゃうよ』
「やめてって言ってるでしょ!」
その瞬間、部屋の電気がついた。
女はいなかった。
私は玄関まで走り、外へ飛び出した。
もう、この部屋には戻れない。
スマートフォンを見る。
兄から着信が一件。
私はすぐに電話をかけた。
「お兄ちゃん!」
『お前、今どこにいる?』
兄の声だった。
生きている。
そのことだけで、涙が出た。
「外にいる。お兄ちゃんは?」
『俺は大丈夫だ。でも、お前に会って話さなきゃいけないことがある』
「何?」
『施設のことだ』
私は立ち止まった。
『お前が最初に襲われた利用者さんのこと、覚えてるよな』
「うん……」
『あの人、昔からうちの家族のことを知っていたらしい』
「どうして?」
『母さんが昔、その施設で働いていたことがあるんだ』
私は息を呑んだ。
『それで、あの人が亡くなる前に、病院の看護師に渡したものがあるらしい』
「何を?」
『古いノートだ』
⸻
兄と待ち合わせたのは、駅前の喫茶店だった。
兄の顔を見ると、少し安心した。
でも、兄はいつもと違っていた。
目の下には濃いクマ。
何日も眠れていないようだった。
「これ」
兄がテーブルに置いたのは、茶色く変色したノートだった。
表紙には何も書かれていない。
「これが、あの利用者さんの?」
兄は頷いた。
「病院から連絡があって、家族に渡してほしいと言われたらしい」
私はノートを開いた。
最初のページには日付。
そして、女性の名前。
母の名前だった。
ページをめくる。
そこには、施設で起きた出来事が細かく記録されていた。
夜中に聞こえる悲鳴。
誰もいない廊下に立つ女性。
利用者の部屋に現れる黒い影。
そして、最後のページ。
私は息を止めた。
そこには、こう書かれていた。
『あの女は人を殺しているのではない。死ぬ人間を先に見つけている』
「……どういうこと?」
兄がノートを覗き込む。
さらに下には続きがあった。
『女が指差した人間は、必ず近いうちに死ぬ。しかし、女が指差したから死ぬのか、死ぬ人間だから指差されるのか、それは分からない』
私は震えた。
つまり、私が関わった人たちは、最初から死ぬ運命だったの?
それとも、私が関わったことで運命が変わった?
答えはどこにもない。
ページをめくる。
最後の一文。
『ただ一つ、分かっていることがある。女は最初に指差した人間を、最後まで追い続ける』
私はノートを閉じた。
「私のことだ……」
兄は何も言わなかった。
そのとき、兄のスマートフォンが鳴った。
画面を見た兄の顔色が変わる。
「どうしたの?」
兄は画面を私に見せた。
母からのメッセージだった。
『二人とも逃げて。もうすぐ山が崩れる』
私は立ち上がった。
「山……?」
兄は頷いた。
「母さんと姉ちゃんがいる場所だ」
その瞬間、店内のテレビが緊急速報に切り替わった。
『現在、海外の山間部で大規模な土砂災害が発生しています』
映像が流れる。
山の斜面が崩れ、大量の水が街へ流れ込んでいる。
私は画面に近づいた。
見覚えがある。
あの日、Googleマップで見た光景。
家が傾き、道路が沈み、水が押し寄せる。
全部、同じだった。
「……始まった」
私は呟いた。
そのとき、テレビの映像が一瞬乱れた。
画面の端。
崩れた建物の屋上に、白い服の女が立っていた。
そして、こちらを向いていた。
私は後ずさった。
兄が私の腕を掴む。
「見るな!」
でも、目を離せなかった。
女の口が動いている。
声は聞こえない。
それでも、何を言っているのか分かった。
『次は、あなた』
その瞬間、兄のスマートフォンが鳴った。
姉からだった。
兄が電話に出る。
『もしもし!』
ノイズの向こうから、姉の泣き声が聞こえた。
『お兄ちゃん……』
「姉ちゃん! 無事なのか!?」
『うん……でも、お母さんが……』
「母さんがどうした?」
長い沈黙。
そして姉は、震える声で言った。
『お母さんが、あの女と一緒にいる』
私は兄からスマートフォンを奪った。
「お姉ちゃん! お母さんは!?」
姉は泣いていた。
『お母さんね……ずっと知ってたんだよ』
「何を?」
『あの女が欲しがっているのは、あんたじゃない』
私は息を止めた。
『本当に連れていきたいのは……』
そのとき、電話の向こうで母の声がした。
『もういいの。今度こそ、私が終わらせる』
「お母さん!!」
電話が切れた。
私は兄を見た。
兄も私を見ていた。
もう逃げている場合じゃない。
私はノートを握りしめた。
母が隠してきた秘密。
姉が幼い頃に見た女。
施設で起きた悲惨な出来事。
そして、あの水害。
すべての答えは、母がいる場所にある。
私は兄に言った。
「お母さんを迎えに行こう」
兄は静かに頷いた。
その瞬間、私のスマートフォンに通知が届いた。
Googleマップだった。
地図を開く。
現在地から母のいる場所まで、赤い線が引かれている。
その線の終点には、見覚えのない名前が表示されていた。
『終わりの場所』
そして、その下に小さく文字が浮かんだ。
『最初に亡くなったのは、あなたのお母さんです』
私はスマートフォンを落とした。
母は、生きているんじゃなかったの?
じゃあ、今まで電話していた母は誰だったの?
隣にいた兄が、突然私の手を握った。
「……なあ」
兄の声が震えている。
「お前、母さんの顔……最後にいつ見た?」
コメント
1件
うわああ最新話読んだよ…!!😭💦 ノートの「死ぬ人間を先に見つけている」って一文で背筋凍った…!まさかお母さんが最初に指差された側だったなんて…しかもGoogleマップに「終わりの場所」って表示されて兄の「最後にいつ見た?」で終わるとか反則すぎるよ〜!!続きが気になりすぎて今夜眠れないかも…次回待ってます🔥