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郷士の顔色が変わり、腕を組んで一考すると、意を決したように立ち上がった。衣擦れの音が静かな屋敷に響き、白足袋が畳を滑るように玄関へと向かった。土間には、黒いスーツに身を包んだ厳つい顔の男たちが大勢、まるで影のように立ち並んでいた。雨上がりの外の空気は冷たく、遠くで犬の遠吠えが聞こえた。郷士の背筋に、かすかな緊張が走る。「なんの騒ぎだね?」
郷士が怪訝そうな顔で問いかけた。声には威厳があったが、わずかに震えていた。列の先頭に立つ若い男が一歩前に出た。黒縁眼鏡の奥の目は鋭く、胸ポケットから焦茶色の革の手帳を取り出した。手帳を開くと、水色の背景に紺色の制服を着た写真が現れた。神経質そうな面立ち、への字に結ばれた薄い唇。名は竹村誠一、階級は警部補。警察官の制服のエンブレムを模した記章が、手帳に重々しく輝いていた。
「刑事さんが…どのような用件で?」
郷士の声には、警戒と好奇心が混じっていた。そこへ、奥から湊が姿を現した。湊の顔を見た瞬間、竹村誠一の硬い表情がふっと緩んだ。
「湊、来たぞ…約束の一週間だ」
「ありがとう、入って」
竹村誠一は湊の大学時代からの友人だった。二人は学生時代、夜通し語り合った酒の席や、試験前の徹夜勉強の記憶を共有していた。しかし、今、竹村は友ではなく、刑事としての顔でここにいた。
先日、湊は賢治の傷害事件に関する任意同行を一週間待ってほしいと竹村に懇願した。賢治は湊の義兄であり、菜月の夫でもあった。事件は複雑で、賢治の不倫が発端だった。賢治は不倫相手に唆されて湊の車に細工をし、交通事故を起こした。湊は、賢治が逃亡する恐れはないと説得し、竹村は一週間の猶予を与えることに同意したのだ。
その一週間、湊と菜月は綿密な計画を立てていた。賢治の不倫の証拠を掴むため、逢い引きを繰り返したホテルのロビーでカメラを構えた。金曜日のあの夜、ホテルの部屋から出てくる賢治と如月倫子の姿を、シャッター音とともに収めた。写真は鮮明で、言い逃れのできない証拠だった。菜月の手は震えていたが、目は決意に満ちていた。彼女は賢治の裏切りを水(みず)に流したかったわけではなかった。すべては計画通りだった。
竹村は土間に上がると、湊に小さく頷いた。
「不倫とやらの証拠は揃ったか?」
「ああ、ありがとう無事手に入れたよ」
「そうか、よかったな。待った甲斐があったよ」
湊は振り返ると、座敷の奥で怯える賢治と四島忠信の姿を一瞥した。竹村の声は静かだったが、どこか重い響きがあった。郷士は黙ってそのやりとりを見守っていたが、内心の動揺は隠せなかった。屋敷の中には、菜月の気配があった。彼女はこの瞬間を待っていたのだ。
縁側の廊下を蹴り上げるような重い足取りで、警察官が整然と列を成して歩いて来た。その姿は、まるで黒い壁が迫ってくるかのようだった。四方を囲まれた賢治と四島忠信は、息を呑み、顔色を青ざめさせた。空気は一瞬にして凍りつき、縁側の木の軋む音だけが響いた。
「綾野さん、こ…これはどういうことですか!」
綾野住宅への横領の罪を自覚する四島忠信は、膝が震え、声が上ずった。公証役場で事を穏便に済ませる約束だったはずだ。裏切られたのかと、必死の形相で郷士に詰め寄った。郷士もまた、困惑の表情を隠せず、座敷にどっかと腰を下ろすと、腕を組んで唸った。
「いや、わしにもさっぱり分からんのだよ…」
「ど、どういうことですか!」
状況が掴めないまま、郷士と四島忠信は顔を見合わせ、竹村の厳しい眼差しを見上げた。竹村の顔には、まるで石像のような冷たさが宿っていた。縁側の向こう、庭の木々が風に揺れる音が、まるで二人を嘲笑うかのように響いた。警察官たちの足音が近づく中、賢治の心臓は激しく鼓動し、四島忠信の額には冷や汗が滲んだ。もはや逃げ場はない。竹村が口を開くその瞬間、座敷に重い沈黙が落ちた。
竹村は大きく息を吸い込み、ゆっくりと腰を下ろすと、鋭い視線で賢治を捉えた。その迫力に、賢治は思わず後ずさり、畳の軋む音が静まり返った座敷に響いた。空気は張り詰め、まるで時間が止まったかのようだった。
「な、なんですか、あなたたちは!」
「こういう者です」
竹村はポケットから警察手帳を取り出し、改めて見せつけた。賢治の顔が一瞬で強張り、息を呑んだ。傍らで様子を見守っていたゆきと多摩さんも、驚きの声を上げた。
「警察の方…」
「湊さんのお友達だそうですよ」
多摩さんがゆきにそっと耳打ちすると、ゆきの顔には不安が広がった。だが、隣に座る菜月の手が母の手を強く握り、ゆきが振り向くと、娘の瞳には決意の光が宿っていた。
「け…警察!?」
「そうです、綾野賢治さん。我々とご同行願えますか?」
「はぁ!? ただのDVくらいで警察が来るのかよ!」
賢治の叫びに、竹村のこめかみがピクリと動いた。黒眼鏡の下の視線は刃のように鋭く、怯える賢治を切り裂くようだった。賢治の握り拳は膝の上で震え、恐怖と怒りが交錯した。
「DV? 今、DVとおっしゃいましたか?」
「な、なんだよ!」
「綾野さんは、奥さまにドメスティックバイオレンスを行っていた、と?」
竹村の迫力に、賢治はさらに尻込みした。だが、負けん気だけは消えず、目を見開き、唾を飛ばしながら叫んだ。
「なんだよ、夫婦なんだから喧嘩のひとつやふたつあるだろ!」
「ひとつや、ふたつ…ですか?」
竹村は怪訝な顔で拳を握り直した。そこへ湊が静かに歩み寄り、菜月が賢治から受けたDVの証拠が収められたボイスレコーダーを手渡した。「これだよ」竹村は「失礼します」と断り、スイッチを入れた。皿が割れる音、菜月の嗚咽が響き、座敷に重い沈黙が落ちた。
竹村の眉間に深いシワが刻まれ、黒眼鏡越しの目は一層厳しく賢治を射抜いた。菜月は目を伏せ、唇を強く噛んだ。賢治は脇に汗を滲ませ、心臓が激しく脈打った。弁明の言葉は浮かばず、唇だけが震えた。
「これまでのことは、全部録音してある」
「打撲痕の診断書もあるんだよな?」
「これだよ」
湊が茶封筒を差し出すと、竹村は「後で生活安全課に提出しておく」と言い、背後の警察官に手渡した。竹村は眼鏡のツルを軽く調整し、姿勢を正すと、改めて賢治を見据えた。
「綾野賢治さん、任意同行をお願いします」
座敷は水を打ったように静まり返り、次の瞬間、ざわめきが広がった。ゆきは菜月の手を握り直し、多摩さんは息を呑んだ。賢治の顔は青ざめ、まるで魂が抜けたようにその場に座り込んだ。
竹村は賢治を見据えた。鋭い眼光が、まるで刃物のように賢治の心を切りつけるようだった。
「綾野賢治さんに任意同行して頂きます」
水を打ったように静かだった座敷が、突然ざわめいた。空気が一瞬にして重くなり、部屋にいた誰もが息を呑んだ。驚愕の表情を浮かべたのは、賢治の父親、四島忠信だった。彼の顔は青ざめ、額には冷や汗が滲んでいた。賢治自身もまた、動揺を隠せなかった。横領の罪については、すでに全額一括返済することで穏便に済ませる念書に印鑑を捺したばかりだった。それが、ここにきて警察が踏み込んでくるとは。
「綾野賢治さんには、任意同行して頂きます」
竹村の声は、抑揚のない冷徹な響きで繰り返された。
「な、なにが…賢治がなにをしたんですか!刑事さん!」
四島忠信は勢いよく立ち上がり、竹村の腕に縋りついた。震える声には、息子への愛情と恐怖が混じっていた。しかし、竹村は微動だにせず、機械のような冷たさで言葉を続けた。その声音には、感情の揺らぎが一切感じられなかった。
「綾野湊さんの交通事故に不審な点があり、捜査を進めて参りました」
「湊さんの!?あれはただの事故じゃないんですか!?」
「それを調べているところです」
「それで、なんでうちの賢治が!」
四島忠信が振り返ると、賢治は顔から血の気が引いていた。動くことすらできず、反論の言葉も出てこない。息子のその異様な様子に、忠信は胸騒ぎを覚えた。これは尋常な事態ではない、直感がそう告げていた。
部屋にいた郷士やゆきの視線は、湊の頬に残る薄い傷跡に注がれていた。一方、菜月は賢治の情けない姿を冷ややかな目で見つめ、軽蔑の色を隠さなかった。
「私どもよりも、ご本人がよくご存知でしょうから、任意同行に応じていただけますね?」
竹村の言葉は、まるで賢治の心の奥底に突き刺さる矢のようだった。四島忠信は、項垂れる息子の背中を力なく叩き、悲痛な面持ちで竹村ににじり寄った。
「どうされましたか?」
「賢治は!賢治はなんの罪に問われるんですか!?」
「傷害罪、もしくはもっと重い罪に問われる可能性があります」
賢治は、思い当たる節があるのか、握り拳を震わせ、怯えた目で畳の模様を凝視した。視線を上げることすらできなかった。その沈黙は、まるで自ら罪を認めるかのようだった。
「それは菜月さんへのDVですか!?DVだけで傷害罪になるんですか!?」
四島忠信の声は、絶望と混乱に震えていた。
「だけで?」
竹村の声が、氷のように冷たく響いた。
「ひっ」
「『だけ』とは、聞き捨てなりませんね」
竹村の黒縁眼鏡の下で、目がナイフのように鋭く光った。まるで忠信の心を見透かすような視線だった。忠信はその気迫に圧倒され、言葉を失い、後ずさった。賢治は、他の警察官に囲まれ、抵抗する気力もなく玄関へと連れ出された。古い木造家屋の床が、足音に合わせて軋む音が、まるでこの家の崩壊を予感させるように残酷に響いた。
竹村は大きな溜め息をつくと、哀れな父親を見下ろした。その視線には、ほのかな同情が混じっているようにも見えたが、すぐに冷徹な表情に戻った。
「息子さんは、綾野湊さんの交通事故を引き起こした原因を作った可能性があります」
「どうして分かるんですか!」
四島忠信は、往生際悪く竹村に食ってかかった。声は掠れ、目は涙で潤んでいた。息子を守りたい一心で、すがるように言葉を重ねた。
「詳しくはお教えできませんが、指紋が一致しました」
「なんの指紋ですか!なにに賢治の指紋が付いていたんですか!」
「お教えできません」
竹村は淡々と答えると、菜月たちに軽く一礼し、踵を返した。その背中は、まるでこの家の悲劇に無関心であるかのように見えた。
「刑事さん!刑事さん、待ってください!刑事さん!」
忠信の叫び声が、座敷に虚しく響いた。賢治は力なく警察車両の後部座席に押し込まれ、窓の向こうで父親の姿を見つめたまま、何も言わなかった。忠信は走り去る車両のリアウィンドーを追いかけ、道路に膝をついて倒れ込んだ。土埃が舞い上がり、彼の嗚咽がかき消された。 座敷に残された者たちは、誰も言葉を発せず、ただ重い沈黙に耐えていた。湊の頬の傷が、まるでこの事件の核心を物語っているかのように、静かな部屋の中でひときわ目立っていた。菜月は、賢治の背中が遠ざかるのを思い出し、胸の内で複雑な感情が渦巻くのを感じた。怒り、失望、そしてどこかで感じる微かな哀れみ…。 外では、遠くでパトカーのサイレンが小さくなり、やがて聞こえなくなった。