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SCENE 14 プロトコル・フェイル
扉が閉じたあとも、
人間の目は、
まだ閉じきらなかった。
降下機の内壁は、
いつもの鉄の冷たさでそこにあり、
固定帯の軋みも、
床のわずかな振動も、
全部、
帰るための音として揃っていた。
それでも、
胸の内側だけが、
まだ外にあった。
倒れた樹。
露出した根。
積み込まれた容器。
動かなかった翻訳。
見ていた羽。
その全部が、
閉じた扉の向こうで、
まだ形を持ったまま残っている気がした。
人間は座席に腰を下ろし、
膝の上に置いた手を、
しばらく開いたままにしていた。
指のしわに残る土が、
乾いて細かく割れる。
爪のきわに残った湿りが、
まだ完全には消えていない。
その手で、
何を止めようとしたのか。
何を守ろうとしたのか。
何も守れなかったのか。
答えは、
どれも半分ずつしかなかった。
記録係が端末を閉じる。
小さな音。
それだけで、
現場のほとんどは過去の欄へ押し込まれる。
作業員は、
固定具の最終確認を終え、
容器の留めを見直し、
ようやく壁にもたれた。
その横顔に、
勝った気配はない。
失った気配もない。
ただ、
終えた者の疲れだけが残っている。
人間はそれを見て、
余計に息が詰まる。
だれも喜んでいない。
だれも笑っていない。
それでも任務は成功へ寄る。
その形が、
この星へ来てからいちばん苦かった。
機体が持ち上がる。
足元から、
浮く感覚が伝わってくる。
大地の圧が遠のき、
代わりに鉄属の振動が骨へ入る。
去る。
その実感は、
飛ぶより先に、
離れるより先に、
体の深いところへ落ちた。
人間は、
とうとう目を上げる。
閉じた扉。
小さな観測窓。
そこに映る景色は、
もう樹の全体ではない。
倒れた枝の端。
高い位置へ残った葉。
暮れていく空の薄い色。
その下に、
まだ小さな影がある。
シエナだった。
距離はもう十分にある。
羽の細部は見えない。
緑も黄緑も、
紫の細いかげりも、
もう混じり合って輪郭になる。
それでも、
見分けがつく。
見ている影だった。
人間は、
反射みたいに掌を上げかけ、
途中で止める。
今さら振ったところで、
見送りにはならない。
謝罪にもならない。
約束にもならない。
何にもならない。
ならないことを、
人間はもう知っていた。
それでも、
膝の上で、
指先だけがかすかに開く。
最初に降りた日。
最初の呼吸。
最初の視線。
低い枝。
開いた掌。
羽先の小さな角度。
あれらは、
たしかに通じていた。
通じていたのに、
届かなかった。
届かなかったのに、
無駄でもなかった。
その矛盾みたいなものが、
人間の中で言葉にならず、
ただ残る。
記録係が、
向かいの座席で低く言う。
「上がる」
短い確認。
作業員がうなずく。
パーフェクトイルカは、
やはり沈黙したままだ。
沈黙したまま、
その輪郭だけが淡く機内灯を返している。
人間は一度だけ、
そちらを見る。
なめらかな反射。
静かな目。
何も語らない口元。
止めた理由は、
最後まで出てこない。
壊れたのか。
切ったのか。
守ったのか。
見限ったのか。
どれも、
もう確かめようがない。
ただ、
その沈黙があったからこそ、
最後の言葉は消え、
最後の理解だけが
余計にはっきり残ってしまった。
人間はまた窓を見る。
シエナは、
見送らない。
飛び立たない。
追わない。
翼も広げない。
ただ、
そこにいて、
見ているだけだった。
その見方が、
最初から最後まで変わらない。
責めるでもなく、
赦すでもなく、
引き止めるでもなく、
忘れるでもなく、
見ているだけ。
人間は、
そのことの重さを、
ここへ来てようやく受け取る。
見送られれば、
去る側の都合へ落ちる。
怒られれば、
まだ受け止める形がある。
叫ばれれば、
胸のどこかで押し返せる。
だが、
見ているだけ、は、
去る側に何も与えない。
意味づけも。
救いも。
出口も。
ただ、
起きたことを
起きたまま残す。
その残し方が、
いちばん深く刺さる。
機体がさらに上がる。
地表が遠くなる。
倒れた樹の輪郭が細くなる。
幹の裂け目も、
露出した根も、
群れの散り方も、
ひとつの模様みたいに縮んでいく。
その中で、
シエナだけは、
最後まで模様にならなかった。
人間の目が、
勝手にそこを探す。
探せてしまう。
見えなくなっても、
まだそこにいると分かる見え方だった。
人間は、
ようやく膝の上の手を握る。
土の乾いた粒が、
掌の中で砕ける。
小さな痛みもない。
ただ、
残っていたものが
少し形を変えるだけだ。
それが、
この一連の出来事に似ていると、
ふと思う。
何もかもが消えるわけではない。
そのままでもいない。
砕けて、
残って、
別の形になる。
樹も。
記録も。
自分も。
作業員が目を閉じる。
記録係は端末の画面を落とす。
だれも、
もう何も言わない。
言えば軽くなることが、
いまは多すぎた。
機体の振動だけが、
帰還の現実を押してくる。
人間は窓の外を見続ける。
景色は遠くなり、
やがて樹も輪郭を失う。
失うはずなのに、
見えないままでも
そこに欠けがあることだけは
はっきり分かる。
失われた部分は、
離れても消えない。
残ったものの中に、
空いた形として居続ける。
人間はその空きを、
自分の中にも感じる。
埋めたいとは思わない。
埋まるとも思わない。
ただ、
ここにあるのだと分かる。
それだけで、
十分に重い。
パーフェクトイルカは
最後まで沈黙したまま、
シエナは
最後まで見送らず、
作業員は
最後まで任務を外さず、
記録係は
最後まで数字を閉じなかった。
だれも自分を捨てなかった。
だからこそ、
どちらも間違いきらない。
人間は、
そのことを
苦いまま受け取る。
向こうは、
生活を守った。
こちらは、
帰るための線を守った。
どちらも本気だった。
どちらも譲れなかった。
譲れなかったから、
壊れた。
壊れたのに、
理解だけは残った。
その残り方が、
いちばん救いにならず、
いちばん嘘がなかった。
機体が雲に入る。
窓の外が霞み、
地表の輪郭が完全に消える。
それでも人間は、
最後まで視線を外さない。
見えない場所へ向けて、
まだ見ている。
見ているだけ。
そしてふと、
あちらもまた、
同じだったのだと思う。
シエナは見送らない。
見ているだけ。
そのあり方の中に、
向こうの正しさがある。
こちらには、
こちらの正しさがある。
交わらず、
混ざらず、
譲らず、
それでも互いを
なかったことにしなかった。
人間は
閉じた窓にうっすら映る自分の顔を見る。
生身で降りた顔。
生身で見られた顔。
止められなかった顔。
その顔の向こうで、
もう見えない星の景色が重なる。
プロトコルは失敗した。
だが、
失敗したのは手順だけだ。
見たことは失敗していない。
分かったことも失敗していない。
合意だけがなかった。
それだけが、
最後まで決定的だった。
人間は、
ようやく目を閉じる。
暗さの中に、
倒れた樹が残る。
露出した根が残る。
シエナの視線が残る。
見送らず、
見ているだけの影が、
いちばん最後まで残る。
世界は、
どちらも正しいまま終わる。
その終わり方だけが、
静かに、
どうしようもなく、
本当だった。
須古星 れい
麗太
柘榴とAI

n217(エヌ・ニイナ)