◆◆◆◆
逃げる。
それはまさに本能だった。
いろいろ考えるよりもまず先に足が出た。
マンションの階段を滑り降りるように外に出て、一心不乱に駅に向かって走り続けた。
首藤灯莉。
アイツのせいで、輝馬の高校生活は激変した。
住所を特定され、朝も放課後も待ち伏せされ、
上履きも外履きも定期的に盗まれ、
筆入れの中のシャーペンやボールペンでさえなくなって、
そして数日後、変な粘つきと臭いをまとったそれが、またいつの間にか筆入れの中に返ってくる。
それが何を示すかわかったとき輝馬は、英語の授業中に嘔吐した。
華の高校時代。
恋した峰岸に集中できなかったのは、
落とすために尽力できなかったのは、
あの驚異が常にあったからだ。
なぜ今の今まで忘れていたんだろう。
アイツに目を付けられたら終わりなのに。
◇◇◇◇
駅に着いた。
(とりあえず実家に行こう。考えるのはそれからだ!)
現金なもので、いつもは軽蔑している父親も、鬱陶しい母親も、今は心の底から会いたいと思った。
しかしーー。
Suicoで改札をくぐろうとすると、エラーが鳴った。
後ろを歩いていた男性が輝馬にぶつかる。
「……すみません」
もう一度通ろうとしてもまたエラーが鳴る。
輝馬は慌てて列を外れ、カードを見下ろした。
(残金がない?まさか。オートチャージに設定しているはずだ)
Suicoのアプリを開く。
やはりチャージができていない。
Suicoの問題というよりは、
「クレジットカード……?」
昨日が支払日だったクレジットカードの引き落としがなされていない。
(そんな……ぎりぎり足りてたはずなのに……!)
「あ……」
輝馬は思わず口を開けた。
峰岸とのホテル。
やっと思いを遂げたあの夜、ホテルのチェックインの際に輝馬は、ツインの部屋をセミスイートに変えたのだった。
しかも勢い余って2泊。レストランでの豪華ディナー。
だたでさえギリギリだった支払いはその2つでとどめを刺されたのだろう。
「……たった1回の遅延で止めてんじゃねえよっ!」
輝馬は生まれて初めて自動きっぷ売り場に並んだ。
路線図で料金を確認しながら実家のある駅までの切符を買う。
ずっと家に閉じこもっているため、財布を触るのも久しぶりで、そこには驚くべきことに札が一枚も入っていなかった。
これから、どうする。
マンションの家賃以外の光熱費、携帯電話、各種受信料、全てクレジットカードで払っている。
それが全部滞るとなると、生活の全てがストップする。
月末に入る給料も、無断欠勤1週間分はおそらく有給にはなっていないだろう。
退職金もまだ3年勤めあげていないため出ない可能性の方が高い。
「…………」
ひどくみじめな気分だ。
高校を首席で卒業し、一流大学に入った。
誰もが羨むYMDホールディングスの企画部に入社したのに。
なぜ、こんなことに。
輝馬は手の中に容易に収まる切符を握りしめながら、前から後ろから肩にぶつかる大衆の勢いによろつきながら、立ち尽くしていた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!