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月影は、選ばなかった。
それは、拒否でも反抗でもなかった。
ただ、選択肢の外に指を置いただけだ。
システムは一瞬、沈黙した。
通常なら即座に返るはずのレスポンスが、
返らない。
進捗バーも、警告音も、出ない。
画面は静止したまま、
「処理中」の表示だけが淡く点滅している。
月影は、そこで初めて気づいた。
――ああ、これは、誰かが拾う。
自分が保持するのではない。
破棄でもない。
未選択という“空白”が、
別の場所へ流れる。
それが誰なのかは、
月影には知らされない。
知らされない、という仕様が、
この制度では最も重い。
彼は、深く息を吸い、
端末を閉じた。
何も起きていない。
少なくとも、表面上は。
***
本部では、
説明できない違和感が広がっていた。
アラートは鳴っていない。
数値も正常範囲内。
契約解除も、炎上も、
外部からの苦情もない。
「……なのに」
誰かが、会議室で呟く。
「なんで、こんなに落ち着かないんですか?」
誰も答えられない。
グラフは、右肩上がりだ。
KPIも達成している。
異常があるなら、
どこかに数値が出るはずだ。
出ていない。
だから、問題はない――
はずなのに。
「“健全”が、増えてません?」
若手の一人が、恐る恐る言った。
その言葉に、空気が止まる。
健全。
曖昧で、測定不能で、
だが誰も否定できない語。
「……その言い方は、よくない」
即座に制される。
「健全、という概念は主観的です」 「評価基準としては不適切」
誰もが頷く。
だが、否定の理由が、
誰一人、言語化できていない。
本部は、理由を探し始める。
なぜ不安なのか。
なぜ制御できていない気がするのか。
答えは、どこにもない。
だから、次の手が選ばれる。
――理念を、明文化しよう。
数値では押さえきれないものを、
言葉で囲い込む。
会議室のスクリーンに、
ドラフト文が映し出される。
> 当社は、
> 意味ある関係性の提供を理念とする――
「ストップ」
即座に赤が入る。
「“意味”は危険です」 「測れません」 「解釈が分岐します」
修正。
> 効率的な関係性の提供を――
「それだと、今と同じです」 「不安が消えない理由にならない」
また修正。
言葉が増えるたびに、
不安も増える。
最終的に、
文書は完成しなかった。
理念は、提出できない。
提出できないこと自体が、
異常だった。
***
花子は、その未完成の文書を、
一読で理解した。
「……なるほど」
理解したからといって、
動くわけではない。
彼女は、
“使う気のない言葉”を一つ、提出する。
安全で、無難で、
何の刃も持たない語。
> 円滑なサービス運営のための参考意見
それが、
そのまま通ってしまう。
本部は、
“何も起きていない”ことに、
さらに不安になる。
誰かが、未選択を受け取った。
だが、
それが誰なのか、
どこで何が変わったのか、
誰にも分からない。
分からない、という状態だけが、
確かに残った。
そして本部は、
一つの結論に傾いていく。
――意味が悪い。
意味があるから、
揺れる。
だから次は、
意味を、限りなく禁止語に近づける。
公式通達の準備が、
静かに始まった。