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しばらく黙ったまま、目を瞑って立ち尽くす。あらゆるにおいに埋め尽くされたシャブランの森の中で、ティオネは野生動物以上に優れた嗅覚で正確にかぎ分けた。必要のない臭いを振り払い、獣の臭いを分別する。
「……ねえ、ヒルデガルド。彼女って何者?」
「さあ。私もよく知らないんだよ」
同じ魔塔に所属する優秀な魔導師であり、エルヒルト大商団の団長を務め、人並み外れた異常ともいえる嗅覚を持っている。身体強化などの類でもなく、ただそういう特殊な能力を持った、それ以外は普通の人間だ。
公爵令嬢という肩書きには庶民派が加わり、『人は褒めて育てるもの』をモットーに掲げている。そんな不思議な令嬢が、ヒルデガルドは気に入っていた。
「見つけましたわ。ひとつ、異質な獣の臭いがします」
「本当か? 君はそれでどこまで分かるんだ?」
鼻高々にティオネは言った。
「──体の大きさ、その者の持つ強さ。それから普段はどんな食事をしているのか。臭いの消え方から移動速度まで、なんとなく分かりますわ」
「十分すぎるな。君には驚かされたよ」
褒められたティオネは頬を赤くする。
「んもー、照れちゃいますわ! さあ行きましょう!」
全速前進。ヒルデガルドをシャロムのもとへ案内できると思ったティオネは、喜んで先頭を駆ける。しかし、途中で少しずつ勢いを失った。追えども追えども、臭いの根源に辿り着かないのだ。いつの間にか森をぐるぐると回らされてる気がし始め、振り返って二人が疲れていないかを確かめながら、歩みはゆっくりになっていく。
おかしい。そんなことはありえない。自分の嗅覚に自信を失いつつある彼女の背中を、ヒルデガルドが仕方なさそうにぽんと優しく叩く。
「大丈夫だ、君の嗅覚は正しい。イーリス、疲労回復のポーションはあるか? そろそろ戻るべきだろうが、もう少し探索がしたい」
「うん、きちんと人数分用意してあるよ」
背負っていた大きなかばんを下ろして、布に包んだ、ポーションの入った小瓶を渡す。一本あれば、その日の疲れなど吹き飛んでしまうような代物で、作るのはけっして楽ではないイーリス印の特製ポーションだ。
「申し訳ありません……。せっかく臭いを見つけたのに、どうしてなのでしょう? お二人に良い所を見せるつもりが迷惑を掛けてしまいましたわ」
「そんなことないよ。ティオネさんがいなかったら、ボクたちが森の中をあちこち自由に歩き回るのも大変なんだから。実際、臭いはあるんでしょ?」
ティオネは項垂れたまま小さく頷く。
「確かにあるんです、臭いは。でもなぜか、誘導されているみたいに同じところをぐるぐると歩かされている気がして、さっき目印にと傷つけた木が目の前に……。このあたりを満たしているのか、それとも気付かれたのか」
両手を顔で覆ってしくしくと泣き出してしまう。こんなにも自信を打ち砕かれたのは初めてだと思った。順風満帆、何もかもが思い通りに進んできたティオネにとって、失敗はありえない。喪失していく自分の強さにがっかりした。
『案ずることはない、人の子よ。おまえが見つけたいものは、いつだってすぐ近くに在った。だが見えなかっただけに過ぎない。気配なき者は風と変わらぬ。瞳に映すのは簡単なことではないのだ』
低く太い唸るような声。しかし優しさに溢れていた。突然、どこからともなく聞こえてきた声に全員が驚く。彼女たちの目の前には、大木にも劣らぬ巨躯を持った、雪のように美しい、まっさらな毛色をした狼が座っていた。
「……シャロム。本当に君なのか?」
狼が尻尾を軽く一振りしただけで、木が悲鳴をあげて倒れる。
『これで満足の行く答えになるか、賢者ヒルデガルド』
少々の荒っぽさだったが、そのほうがハッキリと理解できる。ヒルデガルドは目の前にいるのが、かつて出会った白狼であると確信した。
「会えて嬉しいよ、シャロム。君にまた会えるなんて」
一歩近づく。シャロムは首を横に振った。
『再会は喜ばしい。だが、力は貸してやれぬのだ』
「わかっている。戦いに加われという話じゃない」
デミゴッドの思想を覆すのは無理だ。人間のために傷ついてくれという気もさらさらない。ヒルデガルドは、その代わりに「聞きたい話がある」と、情報の提供だけしてもらえれば、それでいいと思った。力を貸してくれるならそれが最もありがたいが、シャロムの平和主義に口を出せる気はしなかった。
『情報……ああ、それくらいなら問題ない。アバドンも文句は言うまい。いや、むしろあの狂気なら喜んで〝構わない〟と言うだろう』
ヒルデガルドが、一瞬だけ驚きで言葉を詰まらせる。
「なぜ私たちがアバドンのことで訪ねたと分かった?」
『俺には目の会った者の過去が見える能力があるからだ』
どすんとゆっくり地面に寝そべって、シャロムはため息をつく。
『小さなコボルトのときから持っている能力だ、大したものじゃない。ただ、それがデミゴッドになる素質の証明だったのやもしれん。……それはさておき、だ』
大きな瞳がヒルデガルドたちを映して鋭く見つめる。
『アバドンはおまえたちの敵にはならないよ、安心しなさい。ただ、あれの本質は〝愉悦〟だ。関わり方を間違えないように』