「あらもう…ですか?」
亜依子さんは本当に残念そうな表情を浮かべた。
「ええ、仕事が残っていまして」
「そうですか…」
「では、失礼」
と課長はわたしには見向きもせずエントランスホールを出て行った。
もう部屋に帰ってしまうんだ…。
残されたわたしたちの間に、またぎこちない空気が流れる。
人嫌いとは言え場を壊すことはけしてしない課長なのに、こんな態度は珍しかった。
やっぱり、秘密を知っている社長に急に会ったのが気まずかったのかな。
「すいません社長。愛想のないヤツで」
服部部長が深々と頭を下げた。
「いや、それだけ忙しいということだろう。頼もしいことじゃないか。すこしだが会えてよかったよ」
「そうですね」
そう相槌を打って、亜依子さんも課長が去った方を見つめた。
その視線にはどこか熱い想いが宿っているように感じられて…思わずわたしはその綺麗な横顔から視線を外した。
「では我々もこの辺で」
「ああそうだな」
と部長と去ろうとしたところで、社長がわたしを見た。
「三森さん、だったかね。キミにも会えて良かったよ。また機会があったら」
「あ、はい!ぜひ!!」
なんてぺこりと下げたけど、社長とまた会う機会なんてこの先絶対なさそうだけど…。
部長と社長が行ってしまうと、なんだかどっと疲れが押し寄せてきた。
そんなわたしを気遣うように、亜依子さんが笑いかけてくれた。
「今日は亜海ちゃんに感謝ね」
「え?どうしてですか」
怪訝な顔をすると、亜依子さんは意味深にふふふ、と笑って、手にしていたビールをぐいっとあおった。
「だって、こんなに素敵な企画にしてくれたんだもん。みんなだって、すーっごく楽しんで美味しいってよろこんでたわよ。そりゃ社長も興味持って降りてくるってもんよ。おめでとう、ほんとによくやったわね」
わたしは顔を赤らめながら首を振った。
「いえ、これも亜依子さんたちが助けてくださったおかげです」
「そんなことないよ。これはぜんぶ貴方のがんばりの結果だよ。田中のヤツ、「いかにもわたしが考えましたー」って顔をしてるけど、大丈夫、さっきの遊佐課長の計らいでみんな気づいたわよ」
「そう…ですかね…」
と苦笑するわたし。
別に周りから評価がほしかったわけじゃないんだけどな。こうして無事成功できただけで十分だし。
なんて恐縮に思っていると、亜依子さんはパンパンと手を叩いて、よく通る声で言った。
「はい、みなさん!お腹も満足しましたら、今回の立役者である三森さんたち総務部に労いの拍手を」
亜依子さんっ…!
さりげなくわたしの名前だけ浮かせて…っ!
幸い田中さんは気づいていないようで、エントランスホールに割れんばかりに響く拍手や、
「楽しかったよ!」
「また企画してね!」
酔った勢いで聞こえてきた掛け声を気持ちよさそうに受けていた。
拍手が鳴りやまない内に、亜依子さんがまた声を張り上げた。
「では宴もたけなわ―――と言いたいところですが…!!みなさん、実はこの後、駅前に出来たあの新名所、赤ロードテラスのダイニングバーで二次会を予定しています!営業部のサプライズ企画でー!」
おおぉ!
と拍手喝采はそのまま歓声のどよめきに変わった。
赤ロードテラスと言えば、最近オープンしたばかりで超話題の商業施設だ。
入っているお店はどれも流行りの人気店で、予約は常に一杯なのに。
「そのバーの運営会社様が我が社のお得意様でして、長い付き合いがあるよしみで、このたびオープン直前の多忙期にもかかわらず貸切の上に割引料金でご提供してくださいました!これはもう行くっきゃない!景品付きのイベントなんかも企画してますんで、みなさん遅れずに来てくださいね!」
二次会を企画してくれていたなんて初耳だ。
目を丸くしているわたしに、亜依子さんはウインクをして続けた。
「なんで、みなさん早く二次会に行くためにも、各自で後片付けしちゃいましょうーね!キビキビ素早く、お願いしますね!」
『はーい』
さすが亜依子さん…っ!
みんなをよろこばせてその勢いで片付けに向かわせてしまった。上司まで楽しげに片付けを始めるその乗せ方のうまさはぴかいちだ。
片付けはわたしたち総務部だけでやるつもりだったから、これは本当にありがたいことだった。
「二次会のこと、忙しそうだったから亜海ちゃんには後で言おうと思ってたの。ちなみに、田中には事前に了承を得てたから大丈夫よ」
これで少しは片付け楽できるでしょ?
とウィンクする亜依子さんにはもう感謝感激雨あられ。…そんなことまで考えてくれたなんて。
「ほんとうに、なにからなにまでありがとうございます…」
「大したことしてないわよ。楽しい企画を実施してくれたお礼。じゃ、わたしは片付けは手伝えないけど…うちのコたちを何人かおいてくから使ってね。あと、疲れてなかったら、亜海ちゃんも二次会に来てね」
亜依子さんには何度お礼を言っても足りないくらいだけど、この誘いには、わたしは丁重にお断りさせてもらうつもりだった。
だって、なんだか課長のことが気になったから。
怒ったような表情と、最後の去り方が引っかかっていた。
それに課長、回りから話しかけられまくって、あんまし鍋食べれて無かったみたいだし…。
片付けが終わったら、残った具材で鍋作りに行ってあげようかな。
丁重に二次会参加を断ると亜依子さんはからりと笑った。
「そっかそっか、そうね疲れてるもんね。今日はゆっくり休むといいよ」
「本当にごめんなさい。今日は、本当に、ありがとうございました。このご恩は絶対忘れません」
深々と頭を下げたわたしに、亜依子さんは「お伽話じゃないんだから」とケタケタと笑った。
「それより忘れないでね。この企画はぜんぶ亜海ちゃんの成果。だからこれからも負けないで、がんばってね」
じん、と目頭が熱くなる。
揺らいだ視界の中で、亜依子さんは颯爽とコートを羽織りケータイを取り出して、たぶん二次会のお店だろう相手先にきびきびとした口調で連絡する。
かっこいいな。
キャリアウーマンってまさにこんな感じなんだな。
こんな人に味方になってもらえたなんて、今だに夢のようだ。
もしかしたら、わたしの今日一番の成果は、この亜依子さんに認めてもらえたことかもしれない。
って、しみじみしている場合じゃない!
去っていく亜依子さんの後姿を見送った後、辺りを見回して慌てた。
二次会会場に行こうと意気込むみんなの片付けの手は早い。
もうすっかり片付けも終盤にさしかかっていた。
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