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今回のことで責められるべきなのは自分ではなく、岳紘の方のはずなのに彼は随分強気だった。他の女性に惹かれ自分にとって都合の良いルールを、妻である私に押し付けてきていると言うのに。
それなのに離婚をすると言い出した私をまるで脅しているかのような発言まで、信じられない気持ちになった。
「そうなった場合、君のお父さんが離婚を認めてくれるとは思えない。別居も同じだ、世間体を気にする俺達の両親はそんな事を許してはくれないだろう」
「……だから、我慢して貴方との結婚生活を続けろと?」
私の父は夫の言った通りの反応をするに違いない、長年実の子のように可愛がってきた岳紘さんの事を疑わないだろうし、こんな言い方をされたら私の我儘だと思われるに違いない。
彼と結婚して仕事を時短勤務にしてもらった私では、すぐにこの家から出て一人で暮らしていくことも難しい。
「君は君で好きなように俺以外の相手と恋愛して楽しめばいい。俺たちがこれからもずっと夫婦と言う形であればそれで構わない」
「……岳紘さんは、それを苦しいとは感じないのね」
少なくとも私は、悲しくて胸が潰れるような痛みに襲われていると言うのに。表情を少しも変えずに話を続ける夫、この人はずっとこんなにも冷たい人だっただろうか?
……夫婦としてのふれあいはなくても、妻に対する優しさはいつも感じていたのに。
「……苦しい、か」
それだけ呟き胸に手を当てる、そんな夫の様子をただ黙ってみていた。少しでもその心の奥に痛みを感じてくれたらいいのに、と願いながら。
夫の岳紘の提案を受け入れてから二週間が経つが、私たち夫婦の日常に大きな変化はなかった。すぐにでも他の女性と付き合いだし家に帰らなくなるのかとも思ったが、彼は今までと変わらない時間に帰宅し私の作った夕食を食べている。
「この料理は凄く俺好みの味付けだな、新しく覚えたレシピなのか?」
「ええ、先日の料理教室で作ったときに岳紘さんが好きそうだなって思って」
こんなことにも気付いてくれるのに、その心は私には向いてないと思うとやはり苦しい。私の一言で彼が少しだけ口角を上げたように見えたのも、きっと自分の気のせいなのだろう。
今もこんなに岳紘さんに気持ちが残ったまま、何事もなかったように夫婦と言う形だけを演じ続ける辛さ……どうすれば夫に伝えられるの?
「ごちそうさま。雫今週末は夕飯の準備はしなくていい。せっかくだから二人でどこかに食べに行こう」
「え? でも……」
今週末こそは夫は別の女性と過ごすものだと思っていたのに、私と食事なんて何を考えているのか? 岳紘さんの思っていることがわからず戸惑っていたが、彼は時間と待ち合わせ場所を決めるとさっさとバスルームへといってしまった。
あの『夫婦間不純ルール』を提案されてから、夫の態度に違和感を覚えていた。あれほど強引にこのルールを受け入れさせたと言うのに、いまだに彼に他の女性の影は見えてこない。
どう考えても自身の浮気のために作ったとしか思えないルールなのに、いったい何故? 答えが分からないままキッチンの片付けを終え、棚の中から数枚の用紙を取りだしソファーに腰をおろした。
あの日、岳紘さんから渡された用紙に書かれた内容に何度心が沈んだか分からない。朝起きれば夢だったのかもしれないと、毎日この棚のなかを確認したほどだった。
このルールが決められてから数日は夜も眠れなかった、夜中に夫が別の女性に会うために出ていくのではないかと不安で。
今もまだ岳紘さんが別の女性ところに行ってしまうのではないかという心配がなくなった訳じゃない。彼はただ以前と変わらない態度で私に接してくるだけだから。
それにしても……
「どうして今になって一緒に食事に行こうなんて言うのかしら?」
形だけの妻、そんな私と共に食事に行ったところで岳紘さんは楽しめるのだろうか。自分だって今の彼と二人で穏やかな時間を過ごせるとは思えない。
……それでも断れなかったのは、やはり岳紘さんが考え直してくれるのではないかと期待してしまっているからかもしれない。
「浮気を許し合う関係でいるなんて、それでも私たちが夫婦である意味はあるの?」
そう問いかけても、答えてくれる人などいない。結局親にも友人にも相談出来ないまま、その疑問はずっと私の頭の中で渦巻いている。
……好きだからこそ、離れないと諦められないのに。それすら出来ないなんて、私はこれからどうすればいいのだろう?
二人の間で交わされたルールを守る、それはいつか壊れる未来を私はただ待つしかないということではないのだろうか? 愛する人が出来ればいつかはその女性と一緒になりたくなるはず、その時に少しでも罪悪感を感じなくて済むように私にも他に恋人を作れと言っているのかもしれない。
「申し訳なさを感じるなら、さっさと離婚に応じてくれれば良いのに」
あれから何度かそれとなくその意思を伝えようとするが、岳紘さんには上手くかわされてしまう。そんなにお互いの両親に離婚したいと言いにくい理由があるのか、彼は頑なに離婚話を拒んだ。
苦しいのはそれだけじゃない、一番私を悩ませるのは私自身がまだ夫を好きでたまらないと言うことだった。気持ちが冷めてもおかしくないようなことをされながらも、彼のいつもと変わらない優しさに心がずっと揺れる。
嫌いになれたら、そう思うのにそうさせてくれない狡さが岳紘さんにはあった。
他の誰かを触れた手で私に触れないで、知らない女性に見せた笑みと同じ笑顔を私に向けないで! 心の中ではそう叫んでいるのに、自分に無関心でいられるよりは良いのかもしれないと考えてしまう。
そんな葛藤と自己嫌悪で、どうにかなってしまいそうになっていた。
……岳紘さんとの約束の日、待ち合わせまでの時間潰しに寄った店で彼と再会するまでは。