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見上げた桜の花は、月明かりに照らされていた。辺りに街頭がなくてもあまり不便ではないほど、今宵の月は大きく空に浮かんでいる。
僕はその桜の木の幹に背中を預け、寄りかかる体勢で上を仰いでいた。
「大嫌いだ。お前なんて」
つぶやいた声は、はるか高く揺れる桜の花には届かない。
「忘れられないんだよ。彼女の笑顔が」
下を向き、両手で顔を覆い、ずるずると背中を引きずってその場に座り込む。
「日に日に痩せていく顔も、か細い声も、 機械がつながったチューブも。…大好きな本もだんだん読めなくなって、ご飯も食べられなくなって、でも苦しそうに吐き続ける姿が、忘れられない」
背中ごしにかたくてつめたい感触がつたわる。血も肉も、鼓動もない、自分とは違う生の形を感じた。
「…たぶんあれは、彼女が最後に読んだ話だった」
手のひらが濡れる。
「僕と彼女が笑顔で言葉を交わした最後の日だった」
僕の震える声と、木の枝が揺れる音のみがそこにあった。
「僕の考えに、素敵ね。ロマンチックだねって、言ってくれたんだ。……あぁ、すごく嬉しかったなぁ」
僕は再び顔を挙げ、ゆっくりと立ち上がった。それから手袋を外し、汚れた顔を袖で拭い、服やズボンについた土をはらった。
「…お前なんていなければ、僕は…」
僕は足元の土を見下ろし、それ以上の言葉を飲み込んだ。
「いや、それは、もういいや」
僕はもう一度、桜の花を見上げた。
「…それよりも、お前は感謝しなければいけないね」
月の光に照らされたなめらかな花弁が繊細に重なり合い、小さな美しさを精一杯に咲かせている。その無邪気で儚い姿に、むせ返るほどの愛しさが溢れた。
「お前が他のどの桜よりも綺麗に咲くことができるのは……君のおかげだものね」
それから僕は、置いてあったシャベルを傍らに抱え、ゆっくりと歩き出した。
終