「中也!僕、喉乾いた!其処の自動販売機でジュース買って!」
僕は走り出す。
「あ、オイ!」
後ろから中也の焦る声がした。
こうやって中也を置いていくのも、嫌がらせの一つであった。
笑みを溢しながら僕は走る。
──────ドンッ!
「っ…!」
何かにぶつかり、僕は後ろに尻餅をついた。
顔を上げる。
眼の前には大男が佇んでいた。
大柄────否、体格は普通だ。只幼児状態の僕からすれば、どんな大人も大柄に見える。
日が重なり男が逆光を作った。
「大丈夫?」
低く響いた声の男は、そう云ってゆっくりと僕に大きな手を近付ける。
それは何かを彷彿とさせた。
──────ドクンッ!!
過去の記憶が、映像として脳に流れ出した。
躰中が恐怖に包まれる。
「っ……ぁ、」
───ザザッ───────
躰が震え出した。
「ぁ、ぃや………だ…」
厭だ。
恐い。
触らないで。
止めてよ。
痛い。
放して。
怖い。
怖い。怖い。
怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。怖い。
「、っ……………」
誰か。
誰か助けて──────────
「悪ィな俺の弟が、怪我してねェか?」
中也の声が耳に響いた。
視線を移すと、眼の前に中也が居た。まるで僕を守るように、腕を前に出している。
「此方は大丈夫だよ、弟くん怪我してない?」
「おう、大丈夫だ。な?」
「ぁ……うん」
僕は混乱しながらも、ゆっくりと頷いた。
「それじゃあオレは此れで────「パパー!疾く行こー!」
7歳程の少女が、母親らしき人の手を握りながら、此方に話しかけてきた。
「ご免、今行くよー」声を張って、男が答える。「それじゃあ、君達も楽しんでね」
逆光が消えた男は、柔らかい笑顔で云った。
私は其の事に深く安堵する。彼は別に彼奴等ではない。全くの別人だ。
だのに何故あの記憶が─────ザザッ───
「っ……!」
中也の服の裾を握り締める。
「ン?如何した?」
「………は……はっ……はぁっ………はぁ…………」
「オイ、治?」中也の声に焦りが交じる。
違う。あの男は彼等じゃない。
あの記憶は………奥底に仕舞った筈だ。
二度と思い出さないように消し去った筈だ。
だのに。
だのに────。
だのに───────────────
僕の躰が、未だ深く鮮明に記憶しているのだ。
固く拳を握り締める。
「治、如何した?行かねェのか?」
中也が話しかけてくる。返答なんてできる状態じゃあ無かった。
僕は歯を噛み締めた。
「治…?」
「____…っ」
中也の服を掴んで座り込んだ儘、僕は動く事ができない。
只地面とにらめっこする事しかできないのだ。
「─────はぁ」中也がため息をつく。
刹那、視界が一回転した。「ぅわっ!」地面から沢山の人頭が視界に入る。
「おら行くぞ」
中也の歩く振動が、僕の躰に伝わった。僕は中也に肩車されていたのだ。
「…………………」
「ったく、勝手に走るから他の人とぶつかるンだよ………」
ぶつぶつと小言を云いながら中也は進む。眼の前で煌めきと揺らめきが起こった。
何さ………中也の癖にムカつく。
中也の帽子の上に顎を置く。
「ねぇ、中也」
「何だ?」
少しの沈黙の後、私は息を吸って云った。
「大嫌い」
「は?」
中也が目を丸くして僕の方を向く。
「否…………普通はありがとうだろ其処…」
「何で僕が君にそんな事云わなきゃならないのさ」
「逆にそれ以外云う言葉あるかよ……」
「あるよ、大嫌い☆」
「きっと手前頭打ったンだろ、後で岩で殴ってやるよ」
「痛いから却下」
「殴った方が手前の為だ。今日の手前“おかしい”しな」
「失礼な、僕は何処もおかしくなんて───ドクンッ!
視界がぐにゃりと迂(マガ)る。
「は………?」思わず声がもれた。
ギュウッと襯衣の胸元を握り締める。呼吸の仕方を忘れたかのように、息がしづらかった。
鼓動が鳴り響く中、再びれいの薬に侵された時の感覚に陥る。
「っ………はっ、ぅ゙────ぁ」
「治?如何した?」
中也が視線を僕に向けて聞いてきた。
「別に………何、でもない……」後ろから気配を感じ、僕は目を細めた。「………頃合いかな」
中也に聞こえない程度の声で呟く。
「…?」
「……中也」私は上の方に視線を移し、目の前の大きな観覧車に向かって指を指した。「僕、観覧車に乗りたい………」
「おう?判った」
首を傾げながら、中也は返事をした。
***
「おぉーっ!」
太宰は目を輝かせながらゴンドラの硝子に触れ、ヨコハマの街を眺めた。
「凄いよ中也、!人がゴミのようだ!」
「手前ソレ云いたかっただけだろ」
「せいかーい!」
中也の答えに、太宰はにんまりと微笑む。
「ったく……」
太宰から視線を外して、中也は頬杖をついた。
「………中也」
硝子から手を離し、太宰は中也の躰を押した。
「ぅおっ!」中也が壁に背中をつく。「何だよ治……」
「……………………」
少しの沈黙の後、太宰は中也の躰の上に乗って、“手を握った”。
「っ……!」中也が目を見開く。
太宰が耳元で囁いた。
「────今、僕達は狙撃手に狙われている」
「……………!」
中也が視線を横に向ける。向かい側のビルから、何かが日光を反射した。
其の瞬間──────────。
弾が太宰達のゴンドラの硝子を貫く。
然し太宰達の何方かに命中する訳でもなく、それは、空中に“止まっていた”。
刹那、下の方から数人の叫び声が響く。硝子が割れた事によるものだろう。何方にしろ、此れからもっと荒れてくる。
「俺が気付かねェとなると、相当の手練だな」
中也が手を戻すと、止まっていた弾が地面に落ちる。
「僕、も……途中までは…気付かなかったよ……」
太宰が絞り出すような声で云った。
「治?大丈夫か?」中也が太宰の額に触れる。「っ!熱あるじゃねェか!」
中也が声を荒げた。
「ぁー……バレ、ちゃった…………」
そう云った太宰は隠す事を諦めたのか、一気に顔が青白くなり、微かに息が荒くなった。
「手前…!コレずっと隠して─────」
刹那、ゴンドラに振動が伝わり、地面が少し落ちる。
「っ!?」
「…………」太宰が少し顔をしかめた。「ほら……中也、敵さんのお出ましだ」
吐き捨てるように太宰が云う。ぐらっとゴンドラが揺れた。
「チッ…!」
中也が太宰を担いでゴンドラから出る。硝子が割れた事やゴンドラが落ちて来るのに対し、下に居た民人が声を上げて逃げ出した。
地面に足をつける。
逃げていく民衆から、反対方向へ歩き太宰達の方に向かって来る者達が居た。
「全員敵であってるよな?」
トントンっと靴先を地面に叩きながら中也が云う。
「うん、全員…敵………」
中也に掴まりながら顔を白くして太宰が云った。
刹那、太宰達を囲む黒い服を纏った男達の一人が、ナイフを持って駆け出してきた。
「おっ、積極的じゃねェか。いいねぇ」中也の瞳に鋭い光が宿る。
中也が足を振り上げ、敵の一人に蹴りを入れた。
骨が軋む音と、敵の呻き声が上がる。他の敵も中也に向かって来た。
其の瞬間、空中に浮いていた葉が“揺れた”のを太宰は見た。
風によるものではない。
なら何だ?
理由は一つ──────────。
「っ!中也!!」
太宰が中也の服を引っ張る。
「おわ!」刹那、空気を裂くような音と共に、中也の髪が“切れる”。「……!」
其の瞬間、中也も悟った。
『ナニか居る』と。
それに合わせて二人の躰が動く。
眼の前の敵を中也が殴り、中也のナイフで太宰がナニかを受け止めた。
中也が殴った敵が吹っ飛ぶ。
太宰が持つナイフに圧力がかかり、火花が散った。
──────ガキィィンッ!
「っ…!」
宙にナイフが舞う。太宰の腹部がガラ空きになった。
空気を裂く音と共に、ナニかが勢い良く太宰の腹部に向かう。ソレを塞ぐ手段は、幼児状態の太宰には無かった。
「太宰っ!」
中也の声に太宰が自分の頭に触れ、守るように少し背中を丸める。
──────ドカッ…!
中也が空気を蹴った。
「がはっ……!」
然しそこからは骨が軋む音と、呻き声が聞こえた。
奥の方にあった休憩所の壁に“ナニ”かぶつかった跡が浮き出る。
靴の履き心地を直すように、中也は地面に靴先を突き付けた。
「あの感触……人だなァ、透明化の異能者か?」
「多分ね、珍しいものだ」太宰が顔をしかめる。「相手が本気で僕達を殺しに来ている」
その真面目な声色に、中也は黙り込む。
太宰の云っている事に驚いた訳ではない、顔を見れば誰だって分かる。太宰の体調が優れていない事に。
中也の心中の隅に、『焦り』の感情が混ざり込んだ。
「くそっ………!全員撃て!」
黒ずくめの内の一人の男が声を上げる。それと同時に纏った服の間から、銃が顔を出した。
男達が指に力を込め────「装填・重力操作」
中也が手を横に移動させる。銃弾が一直線に並んでいた。
音速で銃弾は男達の躰を突き抜ける。
その銃弾は、太宰が中也に敵が居る事を知らせる際に渡した物だった。
躰の力が抜け、顔色が悪い太宰を中也が抱き上げる。
「太宰!疾く首領の所に──────」
「っ…………ちゅ……う、や!」
太宰が中也の髪に触れた。中也の瞳が揺れる。
「敵は想像以上だ、何か在るだけで今の状況が変わる事だってある」声を絞り出して太宰は云う。「あの薬は最早薬の範疇を超えている。一時的とは云え異能を無効化するんだ。使い次第ではこの街────否、この国が戦場と化す!」
中也は太宰の言葉を静かに聞いて、記憶に綴っていた。
「アレは存在しちゃあいけないんだ」
汗が太宰の頬を伝い、微かに震えていた。歯が重なり音を立てる。
「中也、全部ぶち壊せ……!」
「っ…!」
中也が目を見開く。
「それともう一つ────ドクンッ!
太宰の背中が一気に反れた。
「ッあ゙…!ぅ、ぐっ……」
太宰が襯衣の胸元を握り締め、呻き声を上げる。
「っ!オイ!太宰っ!」
中也の声に太宰は反応せず、只々苦しさに悶ていた。
刹那、後ろの方から足音が聞こえる。
増援を呼ぶなど中也達は聞かされていない。そして奇襲された事などポートマフィアの人間は誰一人として知らない。
なら誰が来た?
当て嵌まるのは──────────。
「敵……」
中也が言葉をこぼす。意識が其方に向けられた瞬間。
「ちゅ……ぅ、や…………」
太宰が子供の弱々しい小さな声で、中也の名を呼んだ。
「、!」中也が太宰を抱えて立ち上がる。「待ってろ太宰!今首領の所に連れて行く!」
然し太宰は中也の胸倉を掴んで、自分に近付けた。
口を動かす。
太宰の躰は物凄く震えていた。声が出ないのだ。
「太宰、?如何した!?」
「っ………は、………ぅ………」
走りながら中也は太宰に耳を傾ける。
「ぁ…………っ…、ちゅ……ぅや………」
太宰の目が虚ろになり、声が掠れていった。
「ぉ、じょ…くは………ぜ、た……ぃに……────」
太宰の言葉が途切れる。
「───────太宰?」
中也の声に、太宰は微塵も反応しなかった。それどころか、少しも動かないのだ。
判るのは微かに息をしているという事。然しその息は最早、喘鳴に近かった。
「っ!」
中也の表情が一気に変わる。
──────太宰……!!!
***
──────カツンッ……
靴音が響く。
真っ白な光の中から、一人の青年が歩いて来た。
「やァ、始めまして………が、正しいかな?」
青年の視線の先には、赤黒い鎖に繋がれた、一人の少年が居た。
『………………』
少年がゆっくりと顔を上げる。
その少年は────青年と同じ顔をしていた。