この物語はキャラクターの死や心の揺れを含む描写があります。読む際はご自身の心の状態にご配慮ください。
野原の、すべての音が止んだ。
その沈黙を裂くように、少女は言った。
 「……あなたたちだよ」
 吐き気がするほどの殺気が、背後から迫る。
空気が凍りつき、草の揺れる音すら遠のいた。
 俺の脳裏には、この先の未来が溢れ出していた。
冷たく、脅威的な刃が――俺の背に迫っている。
 「……っ!」
未来の映像が途切れる前に、俺は反射的に振り向いた。
 そこにいたのは、背丈の小さな少年。
軍服に似た衣をまとい、刃物を構えている。
その眼差しは、この世の汚れをすべて知っているようだった。
 ギラリと光る刃――狙いは俺の腹部。
 瞬間、足が勝手に動いた。
体をひねり、間一髪でかわす。
 だが少年は、口角を吊り上げる。
まるで、それすら計算済みだったように。
 閃光が俺の脇を抜け、背後へ――。
振り返るより早く、刃先はイロハを狙っていた。
 「狙いは……イロハかッ!」
 頸動脈を目掛けて、殺気が走る。
空気が裂け、風が悲鳴を上げた。
 イロハの命が危ない。
待って、このままじゃ――。
 俺は手を伸ばした。
絶対に届かない距離、無意味な行動。
それでも縋るように、希望を握りしめ、精一杯腕を伸ばした。
 その瞬間――。
 イロハが視線を少年に向ける。
その瞳の色が、明らかに違っていた。
 目の前に死が迫っても、怯まず、冷徹に刃の軌道を読む。
軽く顎を引き、わずかに後ろへ下がる。
 ヒュ、と風が鳴った。
少女とイロハの間を、少年の刃が通り抜ける。
草が裂け、風が咲く。
 イロハは避けきったものの、頬に細い赤線が走る。
血が滲んでも、彼女は怯まない。傷は彼女の能力により、瞬時に痛みはどこかに塵となって消えていく。
口の端だけで、冷淡に放った。
 「……遅い。」
 その言葉を聞いた瞬間、俺は心底安堵すると同時に、 全身を刺すような恐怖に包まれた。
あの至近距離で、行動を読んで避けて……尚且つ“遅い”なんて。
この子、やっぱり――。
 少年はしばらく動かない。
呼吸の音も、聞こえない。
聞こえるのは、自分の唾を呑む音と、爆発しそうなほど脈打つ心臓だけ。
 そして、不意に。
 「あは……あはははっ!」
 俺の鼓動をかき消すように、狂気の笑い声が響く。
 「避けたかぁ……いいねぇ。面白いじゃん!」
 少年は短剣をペンのようにくるくる回し、刃の反射を楽しむように目を細めた。
 「……まぁ、ここまでは予想通りだけどね。
だって君は“強い”もん。こんな、赤子でもできるような攻撃――見切れない方がおかしいでしょ?」
 その一言は、称賛でもあり、侮辱でもあった。
 「もう、シス。もうちょっと隠そうって気はないの?
“あなたたちだよ”なんて言ったら、後ろに誰がいるか丸わかりじゃん?」
 少年が呆れたように言うと、
先ほどまで“泣いていた”少女は、無邪気に笑った。
 「だって、からかいたくなっちゃったの。」
 ……この二人、何者なんだ。
突然泣きながら現れた、少年に“シス”と呼ばれる女の子。
短剣を弄ぶ、少女と同じ年頃に見える少年。
 ――明らかに、普通じゃない。
 イロハは瞬時に立ち上がり、草を踏んで距離を取る。
剣の柄に手を添え、二人を睨みつけた。
「あなたたちは、何者?
いきなり刃物を向けるなんて……ご両親に、“人に刃を向けてはいけません”と、教わらなかったの?」
 「お姉さん、人のこと言えないんじゃない?」
 少女は挑発的に笑う。
唇の端が、悪戯っぽくも残酷に歪んでいた。
 「“救済”って言って、虚霊や人を斬ってるくせに。」
 イロハは何も言わなかった。
言い返さない。
――いや、言い返せないのだろうか。
 沈黙。
風が草を揺らし、遠くで鳥が一声だけ鳴いた。
 「……。」
 返事の代わりに、イロハの視線が鋭くなる。
剣を抜かずとも、空気が張りつめていく。
 「あなたたち、名前は?」
 感情を押し殺しながら、イロハが静かに尋ねる。
その姿は、氷のように冷たく、凛としていた。
 少年は鼻でふっと笑い、胸に手を当てた。
まるで舞台の幕が上がる前の俳優のように、芝居がかった仕草で。
 「僕はI.C.O.の幹部。コードネームはヒバル。
で、こっちが双子の妹――シス。」
 ヒバルは、ニタァと不快な笑みを浮かべる。
 「長のために、君の命を奪いに来たんだ。
そして――レンの力も。」
 「レンは渡さない。」
 イロハの声が低く、静かに響く。
 「そんなこと、いつまで言ってられるかな?」
 ヒバルの瞳が光る。
その瞬間、草の上に、風が切り裂かれる音が落ちた。
 「さぁ、シス。始めようか――僕たちの世界で。」
 「うん、お兄ちゃん。」
 ふたりは、静かに手を繋いだ。
まるで祈るように、けれどその祈りは救いではなく、破壊のための儀式だった。
 眩い銀光が、大地を覆う。
草が揺れ、空気が震え、視界が白に呑まれていく。
 「レン――!」
 イロハの声が、遠くで弾けた。
次の瞬間、音も、色も、世界そのものが――崩れた。
視界が、白に呑まれた。
耳鳴りがする。風も音も、何もかも遠のいていく。
 ――それから。
 レンとイロハは、ゆっくりと目を開けた。
 そこは、もうさっきまでの草原ではなかった。
空は鏡のようにひび割れ、地面には無数の亀裂が走っている。
その隙間から、淡い銀の光が滲み出ていた。
 まるで世界そのものが、誰かの心を写したような歪み。
温度がない。
呼吸をしても、空気の感触すら感じられない。
 「……ここは。」
レンは思わず声が漏れる。返事はない。ただ、終わりのない空間の地面にぶつかり、そのまま反射して、レンの耳に届くのみ。
 代わりに、どこからか笑い声が響いた。
高く、冷たく、そして――どこか哀しい、子供の笑い声。
 「ようこそ、僕たちの世界へ。」
 光の中から、ヒバルが姿を現す。
その背後には、無垢な微笑みを浮かべたシスが立っていた。
二人とも、あの時と同じ表情。
無邪気で、どこか壊れている。
 イロハは一歩前へ。
剣の柄に手をかけ、息を整える。
 「ここは……幻覚のようです。」
 「幻覚?」
ヒバルが小さく首を傾げ、唇の端を持ち上げる。
 「違うよ。ここは、僕たちが作り出した“僕たちだけの世界”。
この中では、何をしても現実には干渉しない。
人を壊しても、焼いても、殺しても――“外”には伝わらない。」
 シスが楽しそうにくすくす笑った。
「ね、この場所、綺麗でしょ? 壊すほど、光が咲くの。」
 イロハは目を細めた。
「つまり、あなたたちの能力……異空間の構築。そういう認識で構いませんか?」
 「うん、それでいいと思うよ。」
ヒバルの声は穏やかだった。
だが、その眼は獣のように冷たく、獲物を見据えていた。
 ヒバルが一歩、前に出た。
その足音と同時に、世界の“ひび”がきしむ。
足元の地面が、まるで息をしているかのように脈打った。
 「ところで」
その声は柔らかく、それでいて刃のように冷たい。
「二人とも、危機感ってのはないのかな? イロハは命を狙われて、レンは力を狙われてるって言うのに。」
 ヒバルは、楽しげに微笑んだ。
「――もう少し、“現実”を理解したらどう?」
 次の瞬間、空間が音もなく弾けた。
 風がないのに、レンの頬を何かが掠める。
一筋の赤が、皮膚を裂いた。
 「――いっ……!」
 血が、赤い涙のように頬を伝い、零れ落ちる。
地面に落ちた瞬間、“ポシャン”と、ありえない音が響いた。
まるで、世界のほうが遅れて反応しているようだった。
 レンが息を呑むよりも早く、ヒバルの気配が背後にあった。
 いつの間に……!
未来予測すら、間に合わない……!
 イロハは地を蹴った。
風のように駆け、剣を抜く。火花のような欠片が、地面に散った。
 ヒバルへ殴りかかるように剣を振り下ろす。
だが――それも遅い。
 ヒバルの姿が“途切れて”いた。
まるで映像のフレームが飛んだように、存在が断続的に消える。
その度に、空気が震え、世界の“ひび”がミシミシと音を立てて広がっていく。
 イロハの斬撃は、空を切った。
 「ねぇ、面白いでしょ?」
ヒバルの声が、四方八方から響く。
「この世界じゃ、僕の速度も、時間の流れも、自由にできるんだ。」
 声がどこから来るのか分からない。
まるで空間そのものが、ヒバルの肉体であるかのように。
 イロハは怯まず、一歩前に出た。
 「気づかないの? 僕、ずっとここにいるけど。」
 耳元で、息まじりの声が囁く。
何もない空間から、少年が現れた。
 イロハは動かない。
視線だけをヒバルに向け、冷徹に観察する。
 「……時間操作。正確には、“認識の遅延”。あなたの能力は――凡そ、そのようなものでしょうか。」
 「お姉さん、頭いいね。」
 笑いながら、シスが両手を広げた。
その声は、風鈴のように軽やかで、それでいて、どこか軋むように不気味だった。
 「でもね――自分の“醜さ”を理解する力は、ないみたい。」
 イロハの目が、わずかに細める。
 「醜さ?」
 「うん。あなた、自分のこと忘れてるんでしょ?
だから今も、正気でいられる。
でも、“醜さ”を思い出したらどうなるんだろうね?
その剣、まだ握っていられるのかなぁ?」
 シスは、わざとらしく首を傾げた。
笑みの下で、眉と瞼が歪み、狂気の音が滲み出す。
 「……醜い。それは、誰しもが持っている一面だと、私は思います。」
 イロハの声は静かだった。
けれど、その静けさが、ヒバルとシスにはかえって滑稽に聞こえたのだろう。
 「哲学だねぇ……」
 ヒバルは二人の会話に、割って入るようにそう言った。
馬鹿にするように、肩を揺らして笑う。
「でも、この戦いに哲学なんて必要ないよ。」
 その言葉が落ちた時、既にヒバルはもう、イロハの傍らには存在していなかった。
 いたのは、レンのすぐ真横。
 満開の笑みで、ヒバルの方が一方的に肩を組んでいる。
 レンは、喉の奥底に潜んだか細い声でさえ、表に出せないようだった。
ただその表情だけは、絶望と恐怖に塗れて、瞳孔は大きく開かれていた。
 「レン…..!」
 イロハが剣を持ち替え、踏み出そうとした瞬間
胸ぐらが、乱暴に引き戻された。
 引っ張ったのは、イロハよりも背の低い少女。
シスだ。
瞳が、逃げ場を塞ぐようにこちらを射抜いていた。
「あなた…..離して貰えますか?」
 シスは、唇の端だけで笑った。
 「お姉さんの相手は私だよ。勝手に行こうとしないでよね。」
 イロハはその言葉に耳を貸さなかった。そんなものよりレンの心配の方が勝って、視線はレンの方ばかり。
 「離して、レンが。」
 「離すと思う?」
 イロハの反応を楽しむように、ヒバルは遠目でイロハを眺めながら、レンに話しかけた。
 「ねぇ、どうする?あの子このままだと、シスにやられちゃうかもね。」
 「…..うるさい!」
 レンは思い切りヒバルの腕を解いた。引き離されたことにヒバルは愉快さを覚えたのか、ヒョイっと口元をニヒルに歪ませた。
 そんな中、イロハは未だシスの手の中、一向に離して貰えそうな空気はない。ただ、イロハの瞳を、そっとギュッと捉えて離さない。
 そして、不意に。
 「…..お姉さんの力、ちょっと借りるね。」
 レンは密かに、未来予測を発動させていた。
次の瞬間、驚愕と絶望の未来の映像が訪れる。
 シスの手元から、イロハと全く同じ形容の剣が、一瞬にして現れる。
そのまま嘲笑いながら、イロハの心臓を貫き通す。
 イロハは吐血し、血はまるで薄紅の花びらのように宙を舞い、儚く散った。
白黒の映画のように時間が止まり、ただ血だけが鮮烈に赤く脳裏に焼き付く。
 それが白黒の映画のように、だが血だけは鮮明に赤く、レンの脳内に流れた。
 「イロハ!!避けろ――っ!!」
脳内で未来を追う暇もなく、理性の声が全身を震わせる。
 シスの手元からイロハの持つ刃と同様のものが、糸のような光を纏いながら、静かに現れた。
光は柔らかくも鋭利で、触れるものすべてに威圧感を放つ。
続けるように剣を突き立て、そのままイロハの心臓を標的に、シスは剣を動かした。
 イロハは咄嗟に身体をひねる。しかし、その躍動はほんのわずか遅れ、剣は肩に突き刺さった。
 左肩を貫かれ、鋭い痛みが背筋を駆け抜ける。血がじわりと滲み、思わず息を呑む。
 「…..。」
 「あー、まったく。あいつが未来予測の力無かったら、もう終わってたのに。」
 シスはまるで花の茎を折るように、肩に突き刺さった剣先をじわじわと押し込む。赤が零れ落ち、刃を伝って地面に滴った。
痛みに微動だにせず、イロハはその体制のまま剣を振り下ろす。
だがシスは、わずかに剣を弾き、一歩退いて攻撃を軽々とかわす。
 「…..あなた、その能力…..」
 荒い息を整えながら、イロハは呟く。
 「イロハーー!」
 レンは一歩踏み出した。胸の奥で、必死に念じる。
お願い、あの力を使わせてくれ。まだ使い方も分からない——でも、今はそれしかない。イロハを、絶対に守るんだ。
 願いが応えた。拳が光を帯び、身体の周りにガラスの破片のような光が立ち上る。糸状の光が絡み合い、束となって一振の剣へと変わる。
「――それを求めてた」
横から届いたヒバルの興奮混じりの声が、背筋を震わせる。
 新しい剣は脈打つ生き物のように振動し、腕の中で意思を待つ。レンはそれをぎゅっと握りしめ、前へ押し出した──目の前のシスは、楽しげに笑っている。
その瞬間、視界にノイズが走った。理解する暇もなく、レンは驚愕の表情を浮かべた。
 「ダメだよ。僕と戦うんだよ、君は」
 短剣が、何の前触れもなく出現した。刃と刃がぶつかる音。不可視の恐怖が、二人を包む。
 ヒバルの能力──“認識の延長”。相手には見えない“存在”が、ここでは何よりも危険だ。
レンは深く息を吸い、剣を構える。頭では迷いが渦巻く。人を斬っていいのか、これで誰かを殺してしまったら――それでも、胸が叫ぶ。
 「……絶対、負けるわけにはいかない」
 その声は震えていた。けれど、その奥にあったのは確かな意志だった。
レンの手に握られた光の剣が、鼓動のように脈打つ。
それはまだ不完全で、今にも砕けそうな輝きだったが――
たしかに、そこには“始まり”があった。
第十三の月夜「弄ばれる心と過去」中編 へ続く。
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