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#サレ妻
都築七美
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赤井 里会
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ゆうき
73
麗奈は、しばらく、何も言わなかった。
スマホの画面の明かりが、下から麗奈の顎を白く照らしていた。
観月会の招待客の名前が、そのまま光っていた。
「……何それ」
やっと出た声は、かすれていた。
「なんで、あんたが、そんなこと知ってるの」
「書斎のお掃除で。お目に触れてはいけないものを、見てしまいました」
「前の奥様と同じって、どういう意味よ」
私は、答えなかった。
盆を引き寄せ、もう一度、畳に手をついた。
「出過ぎたことを申しました。失礼いたします」
襖を閉める前に、見えた。
麗奈は、ホットミルクに手をつけなかった。
付け爪の指が、ガウンの襟を、喉元でぎゅっと握っていた。
*
渡り廊下の途中で、足が止まった。
和館の仏間の障子が、細く開いていた。
灯りのない部屋の中に、お義母さまが座っていた。仏壇の前に、背筋をまっすぐに伸ばして。
「……騒がしいこと」
障子の向こうから、声だけがした。
麗奈が走り抜けていった廊下のほうを、見もせずに。
「あなたが、何か言ったのね」
「はい、大奥様」
嘘は、つかなかった。
この人には、もう、つく意味がない気がした。
お義母さまは、しばらく黙っていた。
帯を解いた寝間着の胸元に、手を当てていた。帯揚げは、もう締めていないはずなのに。
「洋館の声は、和館までは届かないわ」
それだけ言って、障子が、すうっと閉まった。
届かない。
だから、あなたは聞かなくて済む。息子が、今夜、何を言っても。
厨房に戻ったのは、二分後だった。
灯りは、つけなかった。
配膳リフトの扉を、指一本から、手のひらの幅まで開ける。
箱の中に、頭を半分入れた。七月にも、八月にも、こうして聞いた。
スマホの録音の赤い丸を、押した。
渡り廊下を、ぱたぱたとスリッパが走る音がした。
和館から、洋館へ。
大階段を駆け上がる足音。
十三段目が、ぎしっと鳴った。
麗奈が、あの段を鳴らすのを、初めて聞いた。
書斎の扉が、乱暴に開く音が、竪穴を降りてきた。
「一億って、何よ!」
麗奈の声だった。
竪穴の中で、壁に当たって、少しだけ割れていた。
「……誰に聞いた」
蒼真の声は、低かった。
「どうだっていいでしょ! 私の名前で、一億円の保険って、何!」
「夫婦なら、普通のことだろ。お前に何かあったら、陽翔が困る」
「陽翔くんのことなんか、考えたこともないくせに」
椅子が、床を擦る音がした。
「昨日は、業者まで呼んだそうじゃないか。洋館の風呂を、浴槽ごと壊すって」
蒼真の声に、薄い笑いが混じった。
「兄さんに追い返されたって、堂島から聞いたぞ。……なんで、今になって、あの風呂なんだ」
「気持ち悪いからよ。それだけ」
「それだけ、か」
麗奈は、答えなかった。
答えないまま、話を戻した。
「私、サインなんかしてない。私の名前、勝手に書いたでしょ」
蒼真は、答えなかった。
「澪さんのときと、同じじゃない」
麗奈の声が、震えはじめた。
「あれも、あんたが書いたのよね。右手で、何べんも練習して。私、知ってるのよ。あの紙、見たことあるもの」
箱の縁を握る指に、力が入った。
知っていた。
この人も、私の名前が練習されていたことを、知っていた。
去年の秋、この人は、まだ蒼真の秘書だった。
書類を抱えて、私の家の書斎に、平気な顔で上がってきた。玄関で私に、お邪魔します、奥様、と頭を下げて。
あの紙を見たのも、きっと、あの書斎だ。
見て、黙って、私に頭を下げていた。
「声が大きい」
「大きくもなるわよ!」
何かが、机に叩きつけられる音がした。
「私はね、あんたのために、何でもしてきたのよ。秘書のころから、ずっと。あんたが社長の顔してられるように、汚いことは全部、私が」
「何でも、か」
「そうよ」
麗奈は、息を吸った。
「澪さんの、お墓の名前だって」
心臓が、一度、止まったような気がした。
「あの女の名前が、いつまでも御影の墓に並んでるのが、我慢できなかった。この家の奥様は私なのに。死んだ人が、いつまでも、あそこで御影澪の顔してるのが」
声が、笑いを含んだ。
「ネイルのやすりでね、何べんも引っかいてやったの。爪が一枚、折れたけど」
十月七日。
右手の付け爪が、一枚だけ折れていた。白いパンプスの踵に、赤い土。
「削ってやったときは、すっとしたわ」
暗い厨房の中で、私は、自分の口を手袋の手で押さえていた。
凛さん。
あの名前の下で眠っているのは、私ではなく、あなたなのに。
この人は、私の名前を削ったつもりで、あなたの眠っている石を削った。
先週、あの墓誌の前でしゃがみこんだ朝の、冷たい石の感触が、手袋の指に戻ってきた。
白く削れた、澪の一字。椿の葉の陰で、繰り返し引っかかれていた。
あれは、やすりの跡だった。
この人の、家事をしない白い手が、握りしめた。
「……お前、そんなことまでしてたのか」
蒼真が、短く笑った。
その笑い方を、私は知っていた。
二年前、私の作った夕食の皿を、手もつけずに下げさせたときと、同じ笑い方だった。
*
「笑わないでよ」
麗奈の声が、また高くなった。
「私を殺す気なら、こっちにだって考えがあるんだから。堂島さんに聞けば、あんたの秘密なんて、いくらでも出てくるのよ」
「堂島?」
「あの人、お金さえ払えば、何でも売ってくれるもの。あんたが、あの人に何をさせたか。去年の十一月に。全部、買ってやる」
竪穴が、しんとした。
蒼真の、ゆっくりとした足音が、床を渡った。
麗奈のいるほうへ。
「買えよ」
ひどく静かな声だった。
「そのかわり、俺も黙ってない」
「……何よ」
「紗季のことを、俺が知らないとでも思ってたのか」
息が、止まった。
竪穴の向こうも、止まっていた。
麗奈は、何も言わなかった。
「紗季がな、言いに来たんだよ。死ぬ少し前に。麗奈さんがくれるサプリの袋に、麗奈さんの名前が書いてある、ってな」
缶の中の、細い字が、目の裏に浮かんだ。
蒼真さんに言ったら、気にしすぎだと笑われた。
「俺は、笑ってやった。気にしすぎだって」
蒼真の声が、楽しそうだった。
「お前が何を飲ませてるのか、わかってたよ。わかってて、笑ったんだ」
手袋の下で、指先が、冷たくなっていった。
この人は、知っていた。
妻が、少しずつ眠らされていくのを。妻が、怯えて、自分に助けを求めに来たのを。
知っていて、笑って、待っていた。
一年前の私のときと、同じように。
いいえ。もっと、ずっと前から、この人は、そういう人だった。
「……嘘」
麗奈の声が、子どものように細かった。
「嘘でしょ。だって、あんた、あの晩、電話で」
「あの晩、お前、俺に電話してきたよな。十時過ぎに」
蒼真は、麗奈の言葉にかぶせた。
「声が、震えてた。袖が濡れて、気持ち悪いって。……俺は、なんて言った? 明日の朝、書類を届けに行くふりをして、見つけてこい。そう言ったよな」
麗奈が、何かにぶつかる音がした。
本棚か、壁か。
「だから、お前は第一発見者になれた。俺が、そうしてやったんだ」
私は、録音の赤い丸を見つめていた。
スマホを持つ手が、震えていた。止めようとしても、止まらなかった。
最初の妻が殺された夜、この人は、電話の向こうで、段取りを決めていた。
二人目の妻を殺すと決めた夜にも、同じ受話器で。
そして今、三人目の妻の名前を、右上がりの字で練習している。
竪穴の奥から、喉の奥で転がすような音が、降りてきた。
蒼真が、笑っていた。
「お前が紗季を沈めてくれたから、俺は五千万で、会社を大きくできたんだ」
コメント
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うわ…第64話、読み終わったけど胸が重い……。凛さんが配膳リフトで録音してるのが切なくて。蒼真が「知ってて笑ってた」って、もう人間のすることじゃないよね。あの笑い方、前の奥様のときと同じって描写がゾッとした。墓石を削ったのも、麗奈の歪みが伝わってくる…。凛さん、どうか無事でいてほしい。続き、ちゃんと読みます。