「必要な時はすぐに渡せるように、持ってた」
「用意周到すぎて、ムカつく!」と言いながら、馨が俺の手から保険証を奪い取った。
「秘書としても、夫としても優秀だろ?」
「笑いごとじゃないから! 保険証くるの、待ってたのに」
「なんで? 病院に行く必要があるのか?」
「……教えない!」
「馨! どっか悪いのか?」
心拍数が上がる。きっと、血圧もグングン上がってる。
馨の体調の変化に、気づかなかった。
「三つ目のお願いを叶えてくれたら、教える」
「ふざけてる場合じゃないだろ! どこが悪いんだよ」
「大丈夫。別に悪いところなんて、ない」
「じゃあ——」
「歌って」
「は?」
「ハッピーバースデーを歌って」
歌……。
別の意味で、心拍数が更に上がりだした。
「いや……。歌……は……」
全身、冷や汗でぐっしょり。
「歌って!」
そう。
俺は音痴、だ。
小学生の頃、先生に学芸会では歌っているフリをするようにと言われるほど。
カラオケなんて、もってのほかだ。
「姉さんだな」
俺が音痴だと知っているのは、姉さんだけだ。
「結婚祝いに、教えてくれたの」
「嫌だ! 歌だけは、嫌だ!」
俺はソファから飛び降り、床に尻もちをついた。
馨が悪い顔をして、俺に迫る。
「何でも叶えてくれるんでしょ?」
「歌、以外なら——」
馨は俺の膝に乗り、仕返しのようにチュッ、と音を立ててキスをした。
「お願い」
耳元で囁かれ、こんな状況にも関わらず、下半身が熱くなる。
「歌って……」
どうにでもなれ!!
やけくそ以外の何物でもない。
俺は、泣きそうになりながら、歌った。
いや、実際には半泣きだった。
「ハッピーバースデー……トゥーユー……」
さすがに馨の顔を見る勇気はなくて、顔を伏せていた。
「ハッピーバースデー ディア 馨……」
緊張と羞恥のあまり、上手く息が吸えなくて、酸欠状態。
「ハッピーバースデー トゥーユー……」
かすれた声で、何とか歌い切った。
もう、この世に恐れるものなどない、と思えた。
「…………」
馨の反応が怖くて、顔を上げられない。
けれど、無反応で放置されるのは、この上ない屈辱。
「ふふ……」
馨が笑いを堪えているのだと、思った。
憐れまれることほど、惨めなことはない。
あまりの格好悪さに、カッとなって顔を上げた。
「笑いたきゃ——」
馨は笑っていた。
涙を流しながら。
馬鹿にするとかじゃなく、嬉しそうに。
「ありがとう、雄大さん」
「もう、二度と歌わないからな」
俺はスウェットの袖を伸ばして、馨の涙を拭った。
「じゃあ、子守歌は私の担当ね」
そう言うと、馨は両手で自分の腹に触れた。
子守……歌……?
「お風呂はパパね?」
パ……パ…………?
「それって……」
「保険証がなかったから、まだ病院には行ってないけど……。多分……」
子供……が——?
「本当に……? え……? けど、しばらくシてない……よな……?」
歌うより、声が震える。
「結婚記念日がデキちゃった日、かな?」
「は? じゃあ、もう二か月以上——」
「うん」
「うん、て! 何で早く言わないんだよ! 病院! 今すぐ病院に——」
妊娠何か月か、とかどうやって数えるんだ?
「悪阻は? いつ頃から始まるんだ? 食欲がなかったのは、そのせいだったのか?」
自分はデキる人間だと自負していたが、妊娠や出産については無知なことに慌てた。
「珍しくパパが慌ててるねぇ」と、馨が腹をさすりながら笑った。
「笑いごとじゃねぇだろ! 知ってたら、こんな忙しくさせなかった」
「うん。でも、大丈夫。病院には明日、行くから。雄大さんは私の代わりに——」
「俺も行く!」
「え?」
「明日のスケジュールは……何だった? あ、手帳は——」
馨の予定が書かれた手帳を取ろうと勢いよく立ち上がり、お決まりのように足の指をテーブルの足にぶつけた。
「いっ——!」
「ちょ——、大丈夫!?」
「くそっ! 子供が生まれたら、このテーブルは危ないな」と、足の指をさすりながら言った。
「気が早過ぎだから」
「いや、腹が大きくなる前に引っ越すか」
「はい?」
「子供が出来たら、やっぱ庭付き戸建てだろ」
あはは、と馨が声をあげて笑った。
「とりあえず、どこの病院に行くか検索しようか」
「そうだ! 評判のいい病院を——」
俺はテーブルの上のスマホを手に、再びソファに腰を下ろした。
マンションの近くがいいか?
いや、会社の近くの方が——。
「ねぇ、雄大さん?」
「ん?」
会社近くの住所の後にスペースを入れ、続けて『産婦人科』と入力する。
「この子が生まれたら、また歌ってね?」
産婦人科のサイトや口コミがずらりと並び、俺はスクロールして目を通し、一番上に表示された総合病院をタップした。
はっきり言って、馨の言葉は聞いていなかった。
「ね?」
「ああ、わかったよ」
七か月半後。
この時、聞き返さずに返事をしたことを、俺は死ぬほど後悔することになる。
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