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第2話:わたしを裏切る前に
「――彼が、私を裏切る前に。
どんな気持ちだったのかを、知っておきたいんです」
カウンセリングルームのような個室。
明るすぎない照明と吸音パネルが、沈黙すら吸い取っていた。
女は、整った目元に淡いアイシャドウを乗せた20代後半の女性だった。
シンプルなベージュのブラウスにロングスカート、肩までの髪を緩く巻いている。
口調は丁寧で、けれど、その声はどこか鋭い。
名前は、野呂麻子(のろ・あさこ)。
中堅広告代理店勤務。交際して5年になる恋人の裏切りを、ほぼ確信していた。
「別れたいわけじゃないんです。……ただ、彼が“なぜ”浮気したのか、そこだけ、知りたい」
その言葉を聞いて、対面の男――イタカは、一瞬だけ目を細めた。
イタカはいつものロングコートではなく、グレージャケットに落ち着いたネイビーのTシャツ。
髪は緩く後ろで束ねており、雰囲気は“探偵にも見えるし、アーティストにも見える”という絶妙な中間だった。
「了解しました。今回の依頼は、**“浮気をする男の心理を、あなたに代わって経験する”**ということですね」
「はい」
イタカは、端末を開いて必要事項を打ち込みながら、ふと尋ねる。
「対象の男性――藤沢さんとの、最後の会話は?」
「2日前。“仕事が遅くなるから外食して”って。……もう慣れてますけどね、そういうの」
「その“慣れ”が感情の揺れになっていなかったか、こちらで体験してみます。
……感情は、蓄積で歪みますから」
イタカは、契約ファイルをゆっくりと開く。
今回の表紙は淡いピンクベージュ。
依頼内容に応じて、色も変わるらしい。
「内容をご説明します」
イタカは、誠実な声で、契約内容を読み上げ始めた。
代行体験契約書【S.P-1132】
– 依頼者:野呂麻子
– 体験目的:対象人物の心理・感情の追体験
– 再現手法:記録映像と体感ログによる感情同期
– 対象期間:1週間分の行動と感情の記録
– 対象視点:浮気を行った側
– 危険度:低(ただし精神的ストレス高)
「今回は、“対象になりきる”タイプの依頼です。
言葉、手の動き、呼吸、心拍……彼がどんな風に心を揺らし、あなたを避けたのか、細部まで再現します」
「……それって、痛みますか?」
「“浮気する側”は、痛まないことが多いです。
でも時々、笑ってるつもりで、心が崩れてる瞬間がある。
そういう“ズレ”を感じるのは、ちょっと楽しいですよ」
イタカはそう言って、軽く笑った。
彼の笑みは、まるで演者が舞台に上がる前のような、期待に満ちていた。
「あなたが閲覧したくない内容には“感情フィルタ”をかけられます。
映像ではなく“気配”だけで体験することも可能です。選択されますか?」
麻子は、静かにうなずいた。
「……でも、映像もください。見られるかはわかりませんけど、もしかしたら」
「承知しました。
では、彼の気持ちになって、あなたを裏切りに行ってきます」
その夜。
イタカは、麻子の部屋に似たワンルームのアパートにいた。
映像と感情シナリオをもとに、恋人としての“生活”を演じる。
パソコンのメッセージに返信せず、深夜に別の番号と通話し、
レストランで見知らぬ女性と話しながら、ふと麻子の名前を呟く。
「……あいつ、まだ起きてるかな……」
それは罪悪感ではなく、“安心を踏み台にする”ような独特の甘え。
イタカの中に“藤沢”の揺れが重なり、皮膚感覚のように染み込んでいく。
彼は、夜の空気を吸いながらつぶやく。
「うわ、これ最低だな。……でも、悪くない。痛みの気配がじわじわ来る」
目が細められ、声がほんの少し楽しげだった。
数日後。
麻子の元に、封筒が届いた。
中には、映像と**“気配の記録”**が2枚重ねで封入されていた。
1枚目のログにはこう書かれていた:
> 彼は、あなたを嫌いになったわけではありませんでした。
むしろ、“戻れる前提”で、あなたを一時的に消していた。
それは裏切りであると同時に、“あなたを安心だと思っていた証拠”です。
2枚目のログの最後に、こう記されていた。
> ご希望があれば、今度は“あなたの視点”で、この感情を再現することも可能です。
イタカは、今度は右耳にイヤホンをして、次の現場へ向かっていた。
感情データを再生しながら、首を軽く傾ける。
「“甘えながら裏切る”って、こんな感じだったんだな。うん、気持ち悪い。でも……悪くない」
そして小さく笑った。
その目の奥では、またひとつ新しい“痛みの輪郭”が、形になっていた。