第3話:死なない選択肢
部屋の中は、驚くほど整っていた。
無地のカーテン、ベッド、雑誌のない本棚。
生活の“揺らぎ”を消したような空間に、ひとりの青年が座っている。
名前は石岡サトル(いしおか・さとる)、20歳。
痩せ型で長めの黒髪、眼鏡をかけたまま伏し目がちに話す。
上下緑のジャージ、素足、そして爪を噛む癖が抜けていない。
「死にたいってわけじゃないです。でも、“どうせどっかで死ぬ”気がしてて……」
彼は、言葉を選びながらつぶやいた。
「その未来を、先に体験できれば、なんか……自分で選べる気がするんです」
向かいに座っていたイタカは、ジャケットの袖をまくりながら、静かにうなずいた。
「未来の“死ぬかもしれない瞬間”を、体験しておきたい。
つまり、“死ななかったとしたら”の道も含めて見ておきたい、という解釈でよろしいですか」
サトルはうなずく。
イタカは、ケースから契約用のファイルを取り出す。
表紙は淡い鼠色(ねずみいろ)。
内側には、罫線に沿って丁寧に配置された記入欄と、控えめな金色の社名が光っていた。
「内容を説明します。今回は“予見される死の再現”となります。
あなたの生活、外出ルート、時間帯、思考傾向、交友履歴から、3つの“死の想定ルート”を生成。
私はそれを、実際に体験し、記録として戻します」
【代行体験契約書:S.P-1189】
依頼者:石岡サトル
目的:想定される死亡パターンの事前確認と回避策の提供
想定:
① 駅のホームでの転落事故
② 夜間道路での接触死亡事故
③ 屋内での孤独死(自傷含む)
提供物:記録ログ、映像データ、感情報告(閲覧制限付き)
オプション:生存プラン提案つき
「“死なないルート”も提案できるのは、この契約の強みです。
ただし、体験そのものは“助からなかったパターン”を優先して行います」
イタカは柔らかく微笑みながら、資料に指を添えた。
「“死ぬ感覚”というのは、映像ではなく、“揺れ”として記録されます。
痛みや後悔、空気の詰まり。
それらを、あなたが触れられるくらいまで薄めた状態で、お渡しできます」
サトルは、ペンを握ったまま、しばらく動かなかった。
そして、ようやく言った。
「……じゃあ、“死なないのが怖くなくなる”ってことも、あるんですか?」
「あります。
私が死んで戻ってくるたび、そう言った人は何人もいます」
数日後――
イタカは、深夜の住宅地を歩いていた。
パーカーにジーンズ、サトルの行動ログにあわせて、同じスニーカーを履いている。
イヤホンから流れるのは、サトルが普段聞いているBGM。
小さな独り言までシミュレートしていた。
そして午前2時23分、無人交差点。
「……あー、これ。来るな」
右からヘッドライト。
一瞬の光と風圧。
イタカの身体が、宙に浮き、道路にたたきつけられた。
「っは、……っつぅ。うん。死んだわ。うん。これは、よく死んだ」
顔をしかめながらも、どこかうれしそうに笑っている。
胸の奥で、恐怖と安堵が交差する――その瞬間が、たまらなく好きなのだ。
数日後。
石岡サトルの元に、1冊の記録冊子が届いた。
タイトル:《死ななかった場合:選択の余地》
> ① ホームでの転落 → 転倒音を録音していた駅員の対応で生存
② 夜間事故 → 死亡。対応不可
③ 屋内孤独死 → 水道メーター異常で生存ルートあり
> あなたは、3回中2回、“誰かに気づかれて”助かる可能性がありました。
最後のページに、イタカの直筆メモが添えられていた。
> 死ぬ可能性は、いつでもあります。
でも、“死なない可能性”も、同じだけあります。
選んでください。
死なないほうを。
イタカは、夜の道を歩きながら、肩を軽くまわす。
肋骨にひびが入っていたが、満足げに息を吐いた。
「あー、怖かった。……でも良い揺れだった。
死なないって、案外、難しいんだな」
そしてまた、次の“痛み”へと向かっていった。