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ある日の夕暮れ時。薄暗い研究所の地下を、僕はゆっくりと歩いていた。今日も今日とて、僕は単調な労働に追われている。腕の中には、惨い人体実験の末に亡くなった被験者の遺体。
「あーあ、めんどくさいなぁ…中身すっからかんとは言え、結構重いし…」
ぶつぶつと文句を言いながら、抱え直す。この感情の吐露だけが、僕に許された唯一の気まぐれだ。
「君は幸せだね。これ以上苦しむことなく、解放されたんだから」
この場所では、人の死など日常茶飯だ。僕は慣れてしまった。慣れること。それは、僕が生き残るための唯一の術だった。
「…僕にしか出来ない仕事、か…」
僕はそう呟き、遺体を焼却炉に放り込んだ。扉を閉め、直ぐ様スイッチを入れる。そこに迷いはない。感情を排した合理性が、今の僕を形作っている。無駄な感傷など、生きる上では何の役にも立たない。
「結局、最後はみんな同じだな…」
焼却炉に燃え残った骨片を眺めながら、ぽつりと呟いた。誰もが、形を変えて消えていく。その単純な事実が、僕の心を妙に落ち着かせた。その時だった。
「クロム!」
荒々しい叫び声が地下のフロア全体に響き渡り、怒りに顔を歪ませたストロン博士が入ってきた。冷たい鉄筋コンクリートの壁と、閉鎖的な空間が彼の怒号を反響させ、余計に耳に障る。
「何故呼んでも来ない!いちいち手間を掛けさせるな!」
僕は胸ポケットに入れた通信機を確認してみた。確かに、受信履歴は昨日のものが最新になっている。山奥にある建物の地下は、電波の接続が非常に悪い。博士が怒鳴りつけている間も、通信機は不安定な電波を拾おうと、微かにノイズを立てていた。
「はぁ…すみません。地下は接続が悪いもので」
僕は、一切感情の乗らない、すげない態度で謝罪した。感情を露わにすることほど、非効率で愚かなことはない。目の前にいるこの男が、常にそれを証明している。
「何だその態度は!」
激しい怒号と共に、乾いた拳が飛んで来た。いつものことだ。背中を蹴られ、床にうずくまる。博士は捲し立てるように怒鳴りながら、僕を何度も何度も蹴りつけた。肉体に痛みは感じる。だが、その痛みに意識を囚われることはない。
「何度も言っているだろう!私は誰からも必要とされないお前を拾ってやった!お前は我々家族に尽くして当然なのだと!それなのに私に口答えをするとは何事だ!」
その罵声も、僕には遠く聞こえ、ただの雑音のようにしか感じられない。自分が受けているはずの仕打ちが、まるで他人事のようだ。しかし、人形のように無反応な僕に、博士は嫌悪感を抱き、ますます苛立ちを募らせていることは分かった。
そうだ。いくらでも蹴ると良い。僕を虐げれば虐げるほど、後に博士が味わうことになる屈辱は、大きくなっていくだろうから。
「幼い頃は痛めつければ言うことを聞いたと言うのに…随分と生意気になったものだな」
「……」
僕は、据わった目を一点に向けたまま、何も答えない。答える必要などない。彼の言葉一つ一つが、僕の復讐への意志を強固にする燃料となるだけだ。彼の憎悪が、僕の原動力だ。
「何とか言ったらどうだ!」
激しい怒号と共に、博士が再び僕を蹴ろうとしたその時だった。
「やめろ!」
地下室に、轟くような声が響き渡った。僕たちの間に、見慣れない男が割って入る。この研究所で、真っ向から博士に逆らう愚かな人間がいたとは、知らなかった。
博士はぴたりと動きを止め、鋭い眼光で彼を睨みつける。
「コバルト=ベックフォード…何のつもりだ?」
コバルトと呼ばれたその男は、博士の圧倒的な威圧感にも一切屈することなく答えた。
「それはこちらの台詞です。子ども相手に暴力を振るうことなど、許され…」
「あー博士!」
コバルトの言葉を遮るように、もう一人、彼と同じく見慣れない銀髪の男がわざとらしいほどの大声をあげた。
「そういえばさっき、カーボ先輩が探してましたよ!早急に確認をお願いしたい資料があるとかなんとかって!」
銀髪の男は、事実を大袈裟に、そして、焦っているように見せかけてまくし立てた。その言葉を聞くと、博士は小さく舌打ちをし、「そうか」とだけ呟く。不機嫌そうな顔で僕を睨んだ後、渋々立ち去った。さすがに自分より二回りも若い研究員の前で、これ以上醜態を晒すような真似はしたくないらしい。
博士が立ち去ると、コバルトは、つい感情的になってしまったことを反省し、銀髪の男に謝罪をした。
「…セレン、済まなかった」
「良いってことよ。それより、今はその子の心配が先だ」
セレンと呼ばれたその男は言うや否や、座り込んでいる僕の隣にしゃがみ、尋ねた。
「君、怪我はないか?」
「平気だよ。蹴られたの、背中だから」
僕は、愛想笑いを浮かべながら、淡々と答えた。彼らに対する感情はない。これ以上、関わるつもりもなかった。
「警戒しなくて良い。俺たちは、君の味方だ。君に危害を加えるようなことはしないし、もし困っているなら、力になりたいと思っている。」
コバルトに優しい言葉をかけられると、僕は一瞬驚いて、つい振り返った。今まで、僕に関心を示す研究員など、いなかったというのに。
しかし、すぐに元の虚ろな表情に戻って、淡々と言い放つ。
「…お兄さん、随分命知らずだね。僕の味方したって、博士に嫌われるだけだよ。やめた方が良い」
「あぁ、分かっている。だが、それでも君のことを放ってはおけない。」
コバルトが迷いなく答えると、僕は彼をじっと見つめた。彼の瞳には、慈しみや憐れみと言ったものが、宿っているだけである。疑うことなど、まるで知らないような目を見て、僕は確信した。彼は使える、と。
「…そっか」
僕はフッと笑って言った。
「世の中、変な人もいるもんだ。…それじゃあ、ちょっと協力してくれる?」
「ああ、もちろんだ。では早速…」
コバルトは迷いなく答えたが、セレンはそうはしなかった。僕の提案に、すぐに飛びつこうとはしない。
「待った。その前に、お前のことについて詳しく聞かせてもらう。協力するかどうかは、それからだ」
彼の視線は、僕の腹の中を見透かしているかのようだった。僕の計画も、見抜いてしまうかもしれないと思わせるほどに。僕は、それには気が付かない振りをして頷いた。
「…そうだね。確かに、相手のことをよく知らないまま手を貸すのは、リスクが高い」
そして、僕は淡々と語り始める。
「僕は、クロム=ローウェル。十三歳。ストロン博士の甥で、この研究所の雑用係だ。主な仕事は、霊安室の管理と、遺体処理、それから、研究所内の掃除ってところかな」
コバルトは、受け止めきれない現実を目の前にしたような顔をした。きっと、自分より歳下の子どもが遺体処理をしているなどと、想像もしていなかったのだろう。
「…待ってくれ。…君は、それほど過酷な仕事を、一人でやらされているのか…?」
コバルトの震えるような問いに、僕は涼しい顔で答える。
「あぁ、そうなるね。でも、仕方がないんだ。こんな仕事、誰もやりたがらないからね」
そう言って、僕は困ったように笑って見せた。僕の笑顔は、きっと無垢に見えるだろう。しかし、その内容との乖離に、セレンは違和感を覚えているらしかった。彼は、僕をじっと見つめ、静かに問う。
「なるほどな。お前の置かれてる状況は、だいたい分かった。でも、いくつか気になることがある。お前は、自分が不当な扱いを受けてることに対して、どう思ってんだ?それと、博士に対しても、全然怯えたり、腹を立てたりする様子もなかったよな?あれは、慣れてるからか?」
僕の顔が、僅かに引きつった。この男は、核心に触れようとしている。僕の感情の『欠如』ではなく、『抑制』に。僕に取っては、最も触れられたくない部分だった。
「…さぁね、何とも思ってないんじゃない?…僕に取っては、昔からそれが当たり前だったから」
僕が言い放つと、二人は困惑して顔を見合わせた。しかし、それが彼らを僕の計画に引き込む隙となる。人間は、理解できないものに好奇心を抱く。
沈黙を破ったのは、僕だった。再び愛想笑いをして、少しおどけて見せる。
「…少し、困らせちゃったみたいだね。それじゃ、本題に入ろうか」
セレンは、探るような目で僕を見つめた。相変わらずそれには気付かない振りをして、僕は続ける。
「僕がお兄さんたちに協力してほしいのは、食糧調達だ。さっきのを見て何となく分かったと思うけど、博士はよく、ああやって僕に八つ当たりをしていてね。今日は暴力だったけど、時々、食事を抜かれる時期もあるんだ。ほら、僕の仕事って、体力が要るものばかりだろ?だから、食事を抜かれると、かなり支障が出るんだよね。で、そうなると、また博士の機嫌が悪くなる訳だ」
なかなかに理不尽な話に、コバルトは気の毒がっているようだった。
「そうならないために、事前に非常食を蓄えておきたいんだけど…僕は食糧庫を開けられないし、もし入れたとしても、誰かに見つかったらまずいからさ。お兄さんたちの深夜巡回の時に、こっそり入らせてほしいんだ」
随分あっさりとした頼みに、コバルトとセレンは拍子抜けしているのが分かった。彼らが期待していたのは、もっと大掛かりな「反抗」だろうか。だが、僕の目的は、そんな些細なことではない。これは、序章に過ぎない。
「本当に、それだけでいいのか…?」
コバルトが思わず尋ねると、僕は相変わらずにこやかに答える。
「あぁ。お兄さんたちは、巡回の日に食糧庫の鍵を開けて、終わる頃にかけ直してくれるだけで良い。そうしたら、僕の知ってる情報を何でも教えてあげるよ」
僕は、二人の目の奥を見つめ、訴えかけるように言った。
「どうだい?お兄さんたちに取っても、リスクは小さいし、悪い話じゃないと思うけど」
彼らが何を考えているかは、まだ分からない。しかし、二人とも博士に対して良く思っていないことは明らかだ。そのうち、謀反でも起こすかもしれない。そうであれば、この提案は、彼らに取っても無視出来ないメリットがあるだろう。
セレンは、熟考の末に答えた。
「…分かった、協力する。オレたちの巡回の日は火曜の終業後だ。それじゃ、そろそろ仕事に戻る。またな」
そう言い残し、彼はコバルトを連れて地下フロアを後にした。
二人の背を見送りながら、僕は心の中で呟いた。
(あの青い目の研究員…コバルトお兄さん…だっけ。随分呆気なかったな。僕が何を企んでるかも知らないで………けど、銀髪のお兄さんは、要警戒ってところかな。あれはきっと、一筋縄じゃいかないだろうね)
懸念点はあるものの、大きな収穫は得られた。これで、やっと動き出すことが出来る。僕は、僅かに胸の高鳴りのようなものを覚えた。