テラーノベル
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セレンとコバルトが僕の協力要請に応えてから、数日が過ぎた。彼らの巡回は、火曜の終業後。それまでの間、僕の計画は着々と進行していた。表向きは食糧調達の準備だが、僕の真の目的は、この研究所を業火で包み込むための下準備だ。日中の掃除は、僕にとって単なる雑務ではなかった。それは、復讐の「燃料」を集める時間だ。事務室の隣にある倉庫や、各研究室の隅に積まれた不要な空の段ボール箱、古いシュレッダーの山から出る紙屑。これらは、全てが炎に変わる僕の「美学」を完遂するための貴重な資材だ。他の研究員が僕の行動に注意を払っていないことを確認し、僕はそれらを人目につかない場所へと密かに運び、隠し続けた。
そして、掃除の最中も、僕の頭の中では絶えず思考が繰り返される。研究所の見取り図を詳細に思い浮かべ、どこに火を放てば最も効率的に、そして確実に炎が広がるかをシミュレーションする。どの通路を炎が舐め尽くし、どの部屋が先に崩れ落ちるのか。所長室からの延焼経路は。完璧な復讐のために、僕はあらゆる可能性を計算し続けた。
数日後、火曜の夜が訪れた。
約束通り、セレンとコバルトが夜間巡回で食糧庫の鍵を開けてくれた。彼らが僕の要求に疑問を抱いている様子はない。僕がただ食糧を蓄えたいだけだと思っているのだろう。
僕は、食糧庫の片隅へと足を踏み入れた。備品が詰められた棚の奥、そこに隠されていたのは、調理用の油のストック。そして、防災セットの中に収められたマッチ。強力な引火性を持ち、炎を効率よく広げるための最高の道具だ。僕の計画に不可欠なこれらを手に入れることが、最大の目的だった。
(充分な収穫だ。これなら、思ったよりもスムーズに進みそうだね)
僕は心の中で呟き、満足した。これで、僕の計画は最終段階へと入る。
巡回を終え、物陰から彼らが食糧庫に鍵を掛けたのを見届けると、僕は地下フロアに戻って眠りに就いた。
そして、翌日。昼休憩が終わり、僕は日課である掃除を続けていた。今日もいつものように、被験者の悲鳴や泣き叫ぶ声がどこからか聞こえてくる。ただ、晴れやかな僕の心は、それらを気に留めることもしない。
そう待たずとも、彼らはきっとすぐに解放されるだろう。そして、僕自身も──
しばらくして、廊下でモップをかける僕の足元に、コバルトがよろよろとトイレから出てくるのが見えた。彼の顔色は異常なまでに青ざめ、憔悴しきっていることが一目で分かった。吐き気をこらえているのか、口元を手で覆っている。
僕は彼の苦しみを冷静に観察し、にこやかに話しかけた。
「こんにちは、コバルトお兄さん。何だか、随分顔色が悪いね。その様子だと、精神的に参ってるってところかな」
彼に情をかけるつもりも、事情を詮索するつもりもない。ただ、あまりにも見ていられない姿を目にしてしまった以上、このまま放置する気にもなれなかった。
「感情的になったって、何も良いことはない。生き残るためには、常に冷静であることだよ」
僕は、ナイフでも突き刺すように、彼にそう告げた。彼は、この世で生きるにはあまりにも繊細で、心優しすぎる。この地獄のような場所では尚更だ。
この言葉が、彼にどう響くかは分からない。だが、コバルトは何かを悟ったような目で僕を見つめていた。
しばらく沈黙が続いた後で、コバルトは震える声で呟いた。
「……行かなければ」
どうやら、仕事に戻ろうとしているようだ。
「その状態で仕事に戻る方が、心配掛けると思うよ。今日は、もう自分の部屋に戻った方が良いセレンお兄さんには、僕から言っておいてあげるからさ」
僕は、コバルトに冷静になるよう促し、部屋に戻るよう指示した。
僕には、その場において、最も合理的な行動を選択してしまう癖がある。それは、自分に関係のないことでも、発動してしまうらしい。
(そうだ、これでいい)
僕の計画は、着実に、そして静かに進行している。誰の感情も、僕の「正義」を阻むことはできない。僕の瞳の奥に宿る不穏な光は、着々と炎を宿していた。
コバルトと別れた後、モップをかけながら僕は廊下を歩き続けた。しばらくすると、案の定、僕の前にセレンが姿を現した。彼は、以前のように僕に鋭い眼光を向けることなく、簡潔に尋ねた。
「クロム、ちょうど良いとこに。コバルト見てないか?さっき、急に倉庫から飛び出してったんだけどさ」
「コバルトお兄さんなら、さっき会ったよ。随分憔悴した様子だったから、部屋に戻った方が良いって言っといた。見たところ、かなり精神的に参ってるみたいだったから、後で様子を見に行ってあげた方がいいと思うよ。それじゃあね」
僕は、彼が求めているであろう情報を全て話し、その場を立ち去った。彼と必要以上に会話を続けることは、僕に取って悪手だ。
この計画は、誰にも邪魔はさせない。必ずやり遂げて見せる。僕の心の炎は、静かに、そして、確かに燃え盛っていた。
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